奇しくも、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースが世の中を席巻する中で2022年本屋大賞を受賞、現実との接点としても読者の注目を集めている逢坂冬馬さんの話題の小説『同志少女よ、敵を撃て』。第二次世界大戦中のナチス・ドイツとソビエト連邦の間で交わされた独ソ戦を舞台とし、日常から一転狙撃兵としての道を歩むことになる少女が主人公の物語です。

戦争の凄惨さを伝えつつ見事に練られている筋書きに高い評価が集まり、第11回アガサ・クリスティー賞も受賞していますが、きっと物語の中心にいる女性狙撃兵たちの心の機微こそが私たちを揺さぶるはず。政策やニュースを「ただの女性のひとり」の目線ですくい上げることができる人・エッセイストの犬山紙子さんは本作をどう読んだ? 特別寄稿をお届けします。 

『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬/早川書房)。


苦悩は言葉よりも真実を語る。
ただそこにある痛みに触れるということ。


タイトルに怯みました。少女だからじゃない、少年であれ、大人であれ、老人であれ撃って欲しくない、どうか撃たないで。もちろん、頭ではわかっています。侵略された時に武器を手に取り戦わないでなんて言えない。絶対的に侵略する側が悪い。侵略しなければ誰も戦う必要はない。

 

そんなことを考えながらページを捲ると、主人公の狙撃兵であるセラフィマは何人もの敵を撃っていました。自分の家族や、大切な村の人たちを皆殺しにされた彼女は復讐心を生きる意味とし、そして女性を守るために何人も何人も敵を撃つ。かつては、“スターリンは恐ろしい独裁者だ”という視点を持ち、「今望まずして戦争に参加しているドイツ人民もファシストの犠牲者なの」と語り、将来外交官としてドイツとソ連を仲良くするという夢を持っていたセラフィマが。きっと彼女も私と同じ立場だったら「撃たないで」と思っていたのではないでしょうか。そんな彼女が味方には愛情をかけ、敵に対しては冷徹に何も感じることなく撃つ。人をきっちり敵(ドイツ兵)と味方(ソ連兵)に線でわけ、撃つ。そんなことが可能になるのが戦争で、戦争とは全方向全ての立場の人にとって地獄なのです。

そしてこのあまりに大きな地獄を前に、個人が抱える痛みにスポットが当たることはなかなかありません。一人一人の想いや傷は大きな物語の影に飲み込まれ、無かったことになる。それは以前、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチによるノンフィクション『戦争は女の顔をしていない』を読んだ時に痛感させられたことでした。この本には第二次世界大戦の独ソ戦に従軍したたくさんの女性の言葉が記されていて、そこには無かったことにされていた痛みが実在していました。この『同志少女よ、敵を撃て』でも、女性狙撃兵の痛みが大きな物語に飲み込まれることなく、個人の、女性の痛みの物語として描かれ続けます。

実戦で初めて人を撃ち、そして同志を亡くしたセラフィマは涙をこぼします。その時に「忘れるな。お前たちが泣くことができるのは、今日だけだ」と上官のイリーナに言われるのですが、それは「今後このような甘えは許されない」という意味ではなく、多くの死を見ることで感覚が麻痺し文字通り泣けなくなるということでした。

 
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