新型コロナの蔓延が始まり、私たちが不安な気持ちでいっぱいだった頃から、コロナや健康にまつわる正しい情報を発信し続けてくれているNY在住の山田悠史医師。米国の「内科」と「老年医学」の二つの専門医資格を持ち、全米最大の老年医学科を擁するマウントサイナイ医科大学病院に勤務。日々、高齢者医療に従事しています。
そんな山田先生が昨年4月から1年間ミモレで続けた連載「最高の老後」が、この度1冊の書籍となりました。

『最高の老後 「死ぬまで元気」を実現する5つのM』

6月24日発売 講談社刊

今回はあらためて、山田先生が医療を志した理由、高齢者診療への視点を伺います。

 

山田悠史 やまだ・ゆうじ
米国老年医学・内科専門医。慶應義塾大学医学部を卒業後、日本全国各地の病院の総合診療科で勤務。2015年からは米国ニューヨークのマウントサイナイ医科大学ベスイスラエル病院の内科で勤務し、現在は同大学老年医学・緩和医療科で高齢者診療に従事する。国内ではフジテレビ系列『FNN Live News α』のコメンテーター、ニュースメディア『NewsPicks』の連載のほか、コロナワクチンの正しい知識の普及を行う一般社団法人コロワくんサポーターズの代表理事として活動。

 

村唯一の医師だった父に憧れて


現在、アメリカで老年医学専門医として活躍中だが、物心が付く頃にはすでに医師を目指していたそう。山田少年の瞳に映っていたのは父親の背中。

「私は幼少期を岐阜県北西部の久瀬村(現・揖斐川町)で過ごしました。中央に揖斐川が流れる山間の小さな村で、父は村唯一の医師。しかも、周囲の村には医師がおらず、父は4つほどの村の住民を一人で診ていました。24時間365日休みなく、体調を崩した人がいればすぐに飛んでいく。その姿がすごくかっこよくて、父のような医師になりたいと思ったんです」

父親の診療所は遊び場でもあった。学校から帰ると診療所に行き、聴診器を使って患者さんと診察ごっこをしたり、薬剤師さんに薬の調合の仕方を教わったり。医療を身近に感じていたそう。

村の診療所の父の椅子に座る、幼少期の山田先生。

「医師になるにはたくさん勉強が必要だと言われて、勉強にも積極的に取り組みました。小学3年の時に高校で学ぶ微分積分を解いていたのを覚えています。でも、まったく苦ではなかった。医師になることしか頭になかったので、夢に近づいているという充実感が強かったですね」

医学部進学に向けて、中学からは母方の祖父母が住む横浜に移住。見事、慶應義塾大学医学部に合格しました。山田先生が目指したのは、消化器科、耳鼻科などのように臓器別、部位別に診る専門医ではなく、総合的な視点で診察して問題を明らかにしていく総合診療医でした。

「たった一人で数千人の住民の診療にあたっていた父のような医師になりたかった。それが医師のあるべき姿だと思っていました」

 


医師4年目、気づけば成長が止まっていた


一方で、医学部に在学中から視野に入れていたのはアメリカ留学。「医学部に入ったら医師免許を取るのは当然のこと。それは一つの通過点であり、目指すものではないと思いました。では、さらに自分を高めていくにはどうすればいいか。そう考えてアメリカ医師国家試験を目標にしたのです」と、山田先生は振り返ります。

ただ、医学部を出てしばらくは、念願だった医師の仕事のおもしろさに夢中に。忙しくも充実した日々を送るうちに渡米に対する気持ちも薄れていったそう。それが再び頭をもたげたのは30歳を目前にした頃。一端の医師として多くの仕事がこなせるようになった反面、伸び悩みを感じるようになったのです。

「2、3歳の頃から真っすぐに道を走り続けてきた私にとって、初めての停滞でした。このままでは自分がダメになる。そう感じて、一度すべてをリセットしようと勤めていた病院を退職。医師の仕事から離れ、バックパックを背負って世界一周旅行に飛び出しました」

 
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