誰もが抱えるささやかな「嘘」にまつわる、オムニバス・ストーリー。 

 


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港区タワーマンション怪談【多香子の場合】

 

どうしてこんなところにマンションを買ってしまったのだろうか。

午後9時。多香子は麻布十番近くの交差点に立ち、ぼんやりと車のテイルライトを眺めていた。

4年前、多香子たち一家が購入したのは、南麻布の新築タワーマンションの一室。ここから800メートルのところに要塞のごとくそびえている。ライトアップされて煌々と輝く外観は、虚栄心を悔しいほどに満たしてくれる。

週に4回、こうして多香子は「城」から降りて、歩いてこの交差点にやってくる。普段は車で移動しているが、このルーティンだけは徒歩。いつもはマノロのヒールだが、この時間だけはスニーカーだった。とはいえ、風呂上がりの素顔で歩くわけにもいかないから、夜遅くまでこのためにメイクを落とせない。それが40歳をすぎた肌にはこたえた。

娘の絵里花が中学受験塾から出てくるのは早くても21時10分。講師に質問がある時は居残るために、22時近くになることもある。その間、生徒の母親たちは塾の玄関周辺で、雨の日も風の日も待機するのが常だ。

「そんな遅い時間に絵里花を一人で歩かせる訳にはいかない」と主張する夫の彰人は、自分で迎えに来たことは一度もない。車での送迎は塾からきつく禁止されているので、多香子はいつも歩いてここまでやってくる。そんな生活も、小学校4年生から、3年目を迎えていた。

2SLDKで2億5千万円。あのマンションの購入権が当選した時は、飛び上がって喜んだ。新しいもの好きな彰人と、ブランド好きな多香子の思惑が一致した、話題のタワーマンション。絵里花と三人、意気揚々と引っ越した時は、王室入りを果たしたアメリカ人女優のような笑顔を浮かべていたと思う。

しかし、いくつかの誤算があった。

まさか入居してすぐに、「あんなこと」になるとは……。

多香子は、子どもたちの送迎のため、塾から離れたところでコソコソと並ぶベンツやBMWの列を見て、眉を顰める。近隣住民から猛烈なクレームが入っていると塾に言われているのに、どういうつもりでルールを破るのだろう。いつの間にか「近隣住民」側に立っていることを自覚して、多香子は少し溜飲を下げる。イライラした気持ちを沈めるため、初めてマンションのモデルルームを内見した時の感激を反芻しはじめる。