「鬼ってもしかしてわたしですか?」と思ったことが何度かありました


映画では、みはると笙子が顔を合わせる場面が3回あります。初めて対面するのは、みはるが「小説の参考にしたい」というもっともらしい理由をつけて、篤郎が住む団地を訪れる場面。団地内で、篤郎が自転車を押しながらみはるを案内している時に、とある用事を済ませて戻ってきた笙子と遭遇します。みはるが笙子に挨拶をした後、篤郎は笙子を自転車の後部座席に乗せ、「じゃあ頑張って」と、みはるを置いて去っていってしまいます。

広末:初めてみはるさんに会った時は結構ショックでしたね。挨拶してきたみはるさんがすごくかわいくて、妻の存在意義や、婚姻の意味がすっぱりと取っ払われてしまった感覚でした。

(C)2022「あちらにいる鬼」製作委員会

寺島:篤郎さんに出会ったばかりで、一番浮かれていた時期ですからね。撮影の時は、そのウキウキ感そのままに、すごい前のめりに挨拶をした記憶があります。妻に会ってしまって「ヤバい!」といった感覚は一切なかったです。でもそのあと、二人が自転車で走り去ってしまって、やっぱそうなんだね。と思わされました。ここで笙子に出会っているから、のちに篤郎と会っている時に「女房が」と言うたびに、背後霊のように笙子の顔が浮かんでくるようになったんです。

 

このように、3人の奇妙な関係が始まっていくのですが、気になるのは、タイトルの「あちらにいる鬼」にあるように、誰が「鬼」かということ。愛人から見た妻なのか、それともその逆なのか……。

寺島:鬼というと怖いイメージですが、3人で鬼ごっこしているような感じなんですよ。原作者の井上荒野さんと対談した時に、荒野さんが「鬼ごっこ的な鬼の意味合いもあります」とおっしゃっていて、なるほどなと思いました。

広末:タイトルの「あちらにいる」というのは見えない存在のことで、鬼というのは私もお互いのことなのかな、と思っていました。でも自分では、鬼というつもりはないまま演じていましたが、現場で廣木隆一監督に何度も「怖い」って言われました(笑)。男性からすると、みはるさんみたいに正直に感情をぶつけるほうがいいのかもしれないですね。笙子のように表情に出さず、何も言わないのは怖いみたい。鬼ってもしかして私ですか? と思ったことが何度かありました。

 

寺島:私も、笙子さんが一番怖くない? って思いました。でも、広末さんは塩梅がよくて表現も過多じゃなかったから、お客さんが想像する余地がある。それが廣木監督の狙いじゃなかったのかな。