人を可哀相と思う気持ちほど傲慢なものはないな、と思う。誰かを憐れむ気持ちは、自分を優しく善良な人になった気分にさせる。でもそれは錯覚で、可哀相と思った瞬間、その対象のことを下に見ている。人を可哀相と思う気持ちは、相手の尊厳を傷つける行為だと思っている。

今から10年ほど前、フィギュアスケーターの安藤美姫さんが未婚のままお子さんを産んだ。当時現役アスリートだった彼女が特定のパートナーを持たないまま母親になることに対して多大な反響があった。自分らしく生きる彼女の選択を応援する声もある一方、ネガティブな意見も多かったと記憶している。中でも、安藤さんのファンの1人として、僕が最も許せなかったのが、「父親がいないなんて、子どもが可哀相」という声だ。

 

子どもの気持ちを盾にして反論を封じ、思いやっているような顔をして傷をつける。いちばん卑怯なやり口だと思う。しかも、実際にお子さんが自分のことを可哀相だと言ったわけではない。見ず知らずの人の胸中を勝手に推測し、わかったつもりになって代弁して自己満足に浸っているだけだ。

そんなふうに道徳や良心の仮面をつけた群衆が、正義という名の行進で人の心を踏みつけていくさまを何度も見てきた。だからこそ、僕は他人のことを可哀相だとは思うまいと決めていた。

なのに、ある日、自分にもそんな偽善の種が植わっていて、一方的な価値観で他人の人生の価値を見積もる不遜な心がどっしり根を張っていることに気づいて、心の底からげんなりしたことがあった。

それは、スーパーで買い物をしているときのことだった。レジに並ぶと、前に1人のおじいちゃんがいた。年は70は過ぎているだろうか。でも、80に届くかはわからない。というか、これくらいの世代の人の年齢を正確に当てられるだけの観察力が僕にはない。目の前のおじいちゃんは特に何をするでもなく、列が動くのをのんびりと待っていた。

僕は僕でスマホを取り出すのも面倒で、手持ち無沙汰に周囲を見渡す。隣の列には親子連れの買い物客。カゴには、野菜やらお肉やらといった食材がぎっしり山盛りになっている。一方、視線を移すと、前のおじいちゃんの買い物カゴは、1人前分のお惣菜だけ。おそらく1人暮らしなんだろうとわかる買い物の量だった。

そのとき、僕は一瞬、侘しいと思ってしまった。そして、自分の中に自然と湧き上がった感情の正体に気づいて、心臓をもぎ取って捨ててしまいたいほど自己嫌悪に陥った。あれは確実に、人を可哀相と思う気持ちだったと思う。