成人式の日も、僕は先生と過ごした。式典なんて興味なかった。市長の祝辞も、同級生との再会も、僕には一切価値なんてなくて。この20歳のお祝いを一緒に過ごしたい相手と言ったら、三上先生しかいなかった。
先生はカラオケでやしきたかじんを歌ってくれた。チンピラみたいな顔をして、やたら美声で歌い上げる先生のたかじんが好きで、小汚い京橋のカラオケボックスがまるで先生のリサイタルみたいだった。記憶がなくなるまで、ずっと歌って、笑って、また歌っていた。
就職と共に上京したあとも先生との交流は続いた。新卒で入社した番組制作会社を辞めると決めたときも、真っ先に連絡したのは先生だった。教師になるか吉本に就職するかで悩んだこともあったと言う先生は、上京前、バラエティ番組のADとして働くことになった僕に「おもろい番組をつくれよ」と夢を託すように言ってくれた。その言葉をたった半年かそこらで裏切ることになった自分が情けなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら先生に報告したら「ええがな、次や、次!」と背中を押してくれた。あの頃みたいに「かっか」と笑ってくれた。
教師と教え子という関係性でこんなにサシ飲みをしたことがあるのは、僕たちくらいなんじゃないかというくらい、その後もよく飲んだ。
僕にとって、先生は無条件で甘えられる人だった。人に気を遣って、顔色を窺って、誰かに嫌われることが怖くて怖くて仕方ない僕が、なぜか先生の前でだけは嫌われるかもしれないなんて一度たりとも考えたことがなかった。思う存分我儘になれた。
僕がどんなにヘマをしても、先生は笑ってくれた。僕がどんなにくすぶっていても、先生は見守ってくれた。先生の前では、赤ちゃんみたいでいられた。
そんな先生が死んだのは、僕が28のときだった。
2月15日、仕事中に後輩からのメールで先生の訃報を知った。液晶画面に書かれている文字情報がうまく飲み込めない。天地の感覚がなくなるとはこういうことかと初めて知った。自分の足が今どこにあるのか。全身の感覚神経が遮断されたみたいで、うまく立っていられない。
打ち合わせを切り上げ、急いで帰省支度を整えた。喪服なんて持っていない僕は、しわくちゃのままの黒のスーツをガーメントバッグに入れながら、身近な誰かが死ぬ準備なんてまったくしてこなかった自分のお気楽さに気づいた。
普段はぐっすり眠れるはずの夜行バスでもまったく眠気が来ない。手元のスマホでは、級友たちの驚きと悲しみの声がひっきりなしに交差している。みんな、何か言葉にしなくては、突然開いた大穴に飲み込まれてしまいそうだった。僕はこの夜行バスが大阪ではなく、もっと違う、どこか遠い地の果てに続いている気がして、額を預けた窓ガラスのひんやりとした冷気だけがなぜだかとても本物に思えた。
通夜も告別式も驚くほど呆気なく終わった。意外なくらい涙は出ず、僕は日常へと帰っていく。先生が死んだと実感したのは、むしろそのあとだった。
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