当然の結果として、荒井氏は更迭されたわけですが、一部からは、「荒井氏にも発言の自由がある」というトンデモ意見が出ています。つまり差別してよいという意見も多様性の一つという話ですが、当然のことながら、こうした理屈は民主国家においては成立しません。

近代的民主国家というのは、社会契約という概念によって成り立っています。

個人がそれぞれ自分勝手に振る舞えば、人々は互いに殺し合ったり、他人のものを奪い合ったりするような、恐ろしい世界になってしまいます(=自然状態:自然状態の定義については、これ以外にも複数の説があります)。こうした状態を防ぐために、人々は、国家というものに権力(暴力装置)を一元化し、秩序を構築することになりました。

更迭された秘書官の差別発言を「多様性の一つ」という意見が完全に間違っている理由_img0
イラスト:Shutterstock

これを社会契約と呼びますが、そもそも社会契約が出来上がった根本的な理由は、人間が生まれながらにして持っている絶対的な権利(=自然権)を、他人から脅かされないようにするためです。つまり国家があり、法律というルールが存在しているのは、個人の権利が侵害されることを防ぐためなのです。

 

これこそが国家や法律が存在している根源的理由であり、この価値観は個人の自由よりもはるか上位に位置します。

したがって、特定の立場にある人を脅かす行為や価値観というものに対しては、「個人の自由」という概念は適用されません。また、こうした行為を助長あるいは認めるような法律や制度が存在した場合、たとえそれが多数決で決まった法律であっても無効になるというのが、民主国家の基本的な考え方です(例えばですが、ヒトラーの独裁を認めたドイツの全権委任法は理論上、無効と見なされます)。さらに言えば、政府が自然権を侵害する行為を行った場合には、その政府を倒す権利があります(=抵抗権)。

一部の人は民主主義について多数決の制度と勘違いしていますが、それは明確な誤りと考えてよいでしょう。

民主国家では、国民の最終意思を決定する際、選挙や議会において多数決という制度を用います。しかし、これはあくまで実務上の仕組みに過ぎず、多数を占めた意見であれば、何でも正しいということではありません。

先ほども述べたように、人間には「自然権」という絶対的な権利があり、これは国家であっても超越できないというのが民主国家の大原則です。自然権を侵害するような発言は、誰であっても許容されませんし、ましてや公務員においては言語道断ということになります。

こうした見解に対しては「息苦しい」と批判する声もあるようですが、「他人の権利を侵害するな」という声を息苦しく感じるようなら、民主国家で生きることは難しいでしょう。

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前回記事「「所得制限なしの子ども手当」に壮絶ヤジの丸川議員が、批判されても素直に謝罪しない“政治的背景”」はこちら>>

 
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