求められるのは可哀そうで悲惨な物語


──私たちには親が障害がある、という共通点もありますが、取材するだけでなく自分が取材される立場にもなる、というのも共通点ですね。取材を受ける際、違和感を感じることがあるとお聞きししました。

五十嵐大さん(以下:五十嵐):僕の両親がろう者だからだと思うのですが、取材される時、可哀そうで苦労したエピソードを求められることもあったんです。僕の人生では、両親の耳が聞こえないことで苦労したこともあるけど、幸せなこともたくさんあります。でもインタビュアーのなかには、幸せなこともあったという話はフーンぐらいの反応で、大変だった話にはすごい食いつくし、掘り下げようとする人がいました。

──幸せだった話にも関心持ってよ! って感じですね。

「可哀そうで悲惨な話ばかり求められる」違和感。障害者の子供には困難も幸せも存在する_img0
 

五十嵐:最初はまぁそうやって苦労話ばかり求められることもしょうがないし、求められていることを話さないといけないと思って話すようにはしていたんです。でもある時知り合いに、「自分を求められている物語に押し込めるのは危ないよ」と言われたことがあったんです。そこでふと立ち止まると、確かに自分ってこんなに不幸だったかな? って思ったんですよね。そこから求められるからと不幸な話ばかりするというのは辞めて、もちろん大変な話もするけど、それだけじゃないんですよというスタンスに切り替えました。そうすると楽になりました。

 

──不幸な話ばかり求められるというのは私もすごく経験があるのでよくわかります。伝えたいことは他にたくさんあるのに、「すごく苦労したんですよ!」「大変なんです」っていうところばかりを切り貼りされるから、出来上がったものを見ると全然自分が伝えたかったことと違うものになってるんです。その時すごく嫌なのが、視聴者や読者から「可哀そうアピールしている」「悲劇のヒロインかよ」みたいに言われてしまうこと。いやいや、映っていない残りの9割で全然そんなこと言っていないんですけど! って叫びたくなります。

五十嵐:僕も「この人って結局感動を売りにしているのかな」、「お涙頂戴で商売しているんだ」と言われたことがあります。メディアって人を扇動できてしまうんです。メディアの影響を受けた人が間違った認識を持ってしまうのがすごく怖いなと思いますね。