妻と10人を超える子どもたちにかけ続けた苦労
浮気こそなかったとしても、富太郎が植物学の研究に没頭するあまり経済面で壽衛や子どもたちに苦労をかけたのは紛れもない事実。家計が苦しい中でも富太郎が研究を続けられたのは、壽衛の献身的な努力のおかげでした。
「経済的な困窮の中で彼女は『まるで道楽息子を一人抱えているようだ』と冗談を言いつつも、ある時には渋谷の荒木山(現在の円山町)で『待合』を経営して、自分でも収入を得て家計を助けようとします」
しかし、当時は富太郎が東京帝国大学講師であったため、世間の厳しい目を気にして待合の店をたたむことになってしまいます。このように、苦境を抜け出そうと壽衛は努力を重ねますが、その人生は苦労の連続でした。
「10人を超える当時でもたくさんの子どもたちを抱えて、借金取りに言い訳やお詫びをしたり、ついにはたびたび転居という名の『夜逃げ』をせざるをえなかった壽衛。彼女の苦労は、察してあまりあります」
最期を迎えようとする妻に示した愛情表現とは?
彼女の苦労が少しだけ報われたのは、関東大震災後の1926年。富太郎が東京府北豊島郡大泉村に自宅(現在の牧野記念庭園)を建設し、一家はようやく長年の借家生活から解放されます。しかし、2年後の1928年に壽衛は病気でこの世を去ってしまいました。それまでの間、富太郎は病床の壽衛に対して彼なりの謝意と愛情を示します。
「病院での治療費が支払えずに、ベッドから追い出されそうになっている重体の妻に対して、仙台で発見した新種の笹に『スエコザサ』と命名したうえ、『ササ・スエコヤナ』という学名を付けて発表することで、せめてもの罪滅ぼしをしようと考えたのでしょうか。壽衛が亡くなった時、富太郎は壽衛の亡骸に深々と頭を下げ、感謝の意を示しました」
壽衛自身が幸せを感じられたのかどうかは第三者には知る由もありませんが、富太郎の偉業は彼女なしには成し遂げられなかったことは間違いないでしょう。光川さんは、富太郎にとって壽衛がどのような存在であったかを、綿密な調査を基にこう記しています。
「富太郎が、植物研究にほぼ生涯身をささげられたのは、壽衛の内助の功によります。我が道を邁進してきた富太郎にとって、彼女こそ唯一無二の存在、人生のほぼすべてを捧げた植物以上の存在だったのではないでしょうか」
著者プロフィール
光川康雄(みつかわ やすお)さん
1951 年生まれ。1975 年、同志社大学文学部文化学科教育学専攻卒業。1988 年同志社大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。同志社大学嘱託講師、駿台予備学校講師等を経て、現在、びわこ学院大学短期大学部教授。主著に『人物で見る日本の教育』(「牧野富太郎」分担執筆、ミネルヴァ書房)、『教育の原理』(共著、樹村房)などがある。
『牧野富太郎 草木を愛した博士のドラマ』
著者:光川康雄 日本能率協会マネジメントセンター 1705円(税込)
日本の植物学の父、牧野富太郎の①生涯、②家族や友人、大学の仲間など関係する人物、③出身地の佐川、高知、活躍した東京などの足跡を掲載し、牧野富太郎の人生と生きた時代に迫ります。植物学に興味がなくても、破天荒ながらも多くの人に愛された富太郎の人間的魅力と、愛妻・壽衛との強い絆に胸を打たれるでしょう。
構成/さくま健太
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