夫の誤算
「ああ、ごめん。そら、僕が先に乗るか……」
湖にはスワンボートもあるのに、恵が借りたのはオールで漕がなきゃならない本物のボート。係員が支えてくれているとはいえ、僕が乗るとグラグラとかしいだ。こんなもんにいい歳した2人が乗るなんて。大学生でもあるまいし。僕は内心ふてくされる。
でも、もし子どもがいたら……? こんなボートに乗るのも、悪くないような気がする。
「見てて翔平さん、私、意外にボート漕ぐのうまいんだから。小さい頃、お父さんに教わったのよ」
てっきり僕がオール担当かと思いきや、瑠香は器用に自分の身長ほどもあるオールを器用に漕いでいく。僕は写真担当となりながら、ちょうどいいとばかりにまたもや思索にふけることになった。
――もし、子どもが無事に生まれたら……思い切ってリセットしてもいいんじゃないだろうか。若くて可愛い瑠香も、いつまでもそのままでもない。パートナーとしては自立している恵のほうがふさわしかったんじゃないだろうか? これを機会に……いやでも、瑠香のことが嫌いなわけじゃないんだ。それどころか、やっぱり10年暮らした情も居心地の良さもある……。
「ねえ翔平さん、執行猶予って不思議な制度よねえ」
執行猶予?
僕は聞き違いかと、怪訝な表情をしてみせた。いつの間にか、湖面を滑って張り出してきた霧が、ボートの周囲をやわらかく取り囲んでいる。
「私、バカだから意味を知らなくて。ニュースなんかで、懲役3年、執行猶予5年とかって言うでしょ? 刑務所に入る3年よりも、猶予が長いなんて、ほんとーうに親切な制度よねえ」
瑠香は、嬉しそうに、♪執行猶予、執行猶予~と妙なふしをつけて鼻歌を歌う。
「今日、あなたの執行猶予は終わりましたあ」
するりと、オールが瑠香の手を離れ、音もなく、深い湖底に沈んだ。
「お、おい! 何するんだよ! ふざけるな、岸からこんなに遠いんだぞ、帰れないじゃないか」
瑠香は何も言わない。それどころか、相変わらず鼻歌を歌いながらこちらをじっとみて、リズムに合わせて体を揺らし始める。
「翔平さんて、ほんとーうに、脇が甘いのよねえ。iPadにもあなたのLINE、配信されてるんだよう。あーあ、私、本当は読みたくなかったんだけどなあ」
言い訳しようにも、ボートは大きく揺れていて、それどころじゃない。
透明度の高い、冷たい深い湖ほど恐ろしいものはないと、十数メートル下にうごめく無数の藻を横目に、僕は知った。
ある日奇妙な1本の電話がかかってきて……?
構成/山本理沙
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