昔から希死念慮がわりと強い方ではある。

心がぺしゃんこになったとき、もう死んでしまいたいと思う。そんな夜はきっと誰にでもあって。みんな、そういう夜をどうにかこうにか乗り越えながら、今日も会社や学校に行き、あるいは家庭を支え、社会の一員のふりをしている。誰も褒めてはくれないけど、これってめちゃくちゃすごいことだよなと思う。

きっと、死にたい夜の過ごし方って人それぞれで。生きていくということは、そんな夜の自分なりの乗り越え方を見つけることだと僕は思う。今回は、死にたい夜の僕なりの過ごし方を書いてみたい。

 


長年お世話になっているのは、音楽だ。それも、元気が出るような明るい歌はいらない。落ち込んだときは、そのまま海底の奥深くまで沈んでしまえるような暗い曲がいい。

二大巨頭は、中島みゆきと鬼束ちひろ。たぶんこの2人の歌がなければ、僕は今こうして人間の形をとどめていられなかったと思う。森山直太朗の『生きてることが辛いなら』やamazarashiの『僕が死のうと思ったのは』もいい。あいみょんといえばすっかりラブソングの人みたいなイメージになったけど、僕の中でのあいみょんはいまだに『生きていたんだよな』のままである。

ただ、そんな音楽だけじゃなくて、音楽に紐づく“あること”が、ここ数年の僕の希死念慮をうまくなだめてくれている。

それが、YouTubeのコメント欄だ。昨今、いろんな楽曲のMVがYouTubeにアップされているけれど、そのほとんどのコメント欄がオープンになっていて、ユーザーたちが自由に感想を書き綴っている。

音楽というのは人の記憶に密接に結びついているからだろうか。面白いもので、こういう楽曲のコメント欄を見ていると、いたるところで“自分語り”をしている人が見られる。なんだかそれがとってもいいのだ。

内容は、曲によってさまざま。先に挙げたような曲であれば、やっぱり同じように希死念慮を抱いたユーザーが集まりやすいからか、自然と自分の生きづらさの告白になりやすい。会社に行くのが辛い。家族とうまくいかない。友達が誰もいない。誰にも言えない苦しみを、インターネットに放つ。まるで教会の懺悔室みたいだ。誰かに聞いてほしいわけではない。でも、誰かと分かち合いたい。不器用な想いが、無機質なフォントからにじみ出ている。

見ず知らずの誰かの言葉に救われることもある。希死念慮強めな僕の「死にたい夜」の乗り越え方_img0
 

すると、その返信欄に、同じような生きづらさを抱えた人がコメントを寄せる。励ましもあれば、共感の言葉を添える人もいる。連帯の輪が少しずつ広がっていく。そのやりとりに、少し心が柔らかくなる。

 
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