メディアを通じて見ているのは狭い世界の話でしかない


ーー陽子というキャラクターを演じるにあたり、監督とどんな話をされましたか?

二階堂ふみさん(以下、二階堂):理解しがたいキャラクターで、「陽子はこういう人間」という明確さを持ってキャラクターに臨めたかと聞かれれば、どうだろうという感じです。手探りでした。でも作品自体が明確な答えが出るものではなかったので、陽子をどう演じるかということよりも、この事件の背景にある問題、作品のテーマに向き合って考えることが大事なのかなと思いました。

 

――陽子は様々な鬱屈を抱えていますが、その根源には何があると感じましたか?

二階堂:陽子は信仰を持つ家庭に育っているんですが、彼女の家にはその信仰と矛盾する大きな問題も抱えています。陽子自身も宗教的な観念を持っている人なので、そこに対する疑問や葛藤はあると思います。つまり人間の本質は、聖なるものなのか、俗なるものなのかという。もちろんどちらもあるのが人間だとは思うんですが、陽子自身はそういう「白か黒か」の答えを求めているんじゃないかと。宮沢りえさんが演じられた洋子に対してぶつけるものも、そういうものだったんじゃないかなと考えたりしました。

同時に、このキャラクターは圧倒的に、ままならない承認欲求の裏返しとして、「他者が見る自分」みたいなものをすごく強く意識している人と思いました。原作のモチーフとなった事件でも、ネット上には、ある種の「神の視点」ーー「自分はすべてを分かっている」というふうに語られているものが少なからずあったと思うんですが、陽子はそういう側の人であるような気もしました。

 

――正論を言うタイプのように感じましたが、その正論を必ずしも信じてはいないというような感じも。

二階堂:どこまでが感情で、どこまでが思考なのか、ちょっと私もわからなかったですね。シーンごとに陽子のキャラクターがどんどん変わっていく感じで、「陽子は一体何を求めているんだろう? 何を感じているんだろう?」という風には思っていました。ただ最初に脚本を読んだ印象では、「分かっているつもりでいる人」というものかなと。

――今の時代にいがちな人という気がしました。たとえばSNSなどでイメージを膨らますなどしたりしましたか?

二階堂:SNSというよりは、メディア自体にそういうところがあるなと思ったんです。書き手によってすごく主観的な記事ってあると思うんですが、読み手も書き手も、それが主観的であることに気づいていないことがある。メディアを通じて見ているものは、本当にすごく狭い世界の話でしかないかもしれないのに、それが全てだと思って簡単に言葉を発してしまうケースも。私の中では、陽子ってそれらに近かったんです。人間の思いには寄り添わない正論を、知識や数字をベースに「私はこれだけのものをわかっているんだ」と示し、それを拠り所にして自分を保っている人。誰かにぶつけた言葉に対するリアクションで自己が形成されてく人。今話しながら、そんな風に思いました。

――陽子が感じる承認欲求のままならなさのようなものを、二階堂さん自身は感じることはありますか?

二階堂:いろんな時に考えるし、感じます。今よりももっと若かった時は、自分の未熟さゆえのフラストレーションを抱えていました。当時は、まず自分が未熟であることが認められなかったし、表現者として足りていない部分がたくさんあるということも受け入れられていませんでした。

動物と暮らし始めたり、目を向けるべきものは自分の外側にもたくさんあるということに気づき始めてからは、自分の内面の悩みは減ってゆきました。もちろん今でも完全になくなってはいないんですが、外に目が向くようになってからは、そこまで気にならなくなっていきましたね。養老孟司先生が著書の中でおっしゃっていたんですが、「脳だけが動いていて体が動いていないことが問題」と。自分もそうかもと思いました。特に動物たちには救われました。犬の散歩をしていると、余計なことを考えなくなっていくので。