旧優生保護法により、障害者に強制不妊手術が行われた歴史がある


さとくんと対峙するとき、洋子の心の中にいる、もう一人の洋子が語りかけます。

実際自分はさとくんと同じなのではないか。
子どもに障害があるなら“いらない”と思ったのではないか?
実際中絶しようとしたじゃないか。

障害者のことを自分事だと捉えられているのか。
きーちゃんが自分の家族だったらどうなのか。
友達にきーちゃんみたいな赤ちゃんが産まれたらおめでとうって言えるのか。

そんな声を振り払うように、洋子はさとくんに言います。
「あなたを絶対に認めない」

それに対し、さとくんは言います。
無傷で手を汚さずに善の側に立とうとしている人はズルい、自分は存在意義をかけてやるのだ、と。障害者を殺すのがよくない、なんて綺麗事。「障害者はいらない」それこそが社会の“隠された本音”なのだ、と。 

「障害者は子どもを産むな」「障害者は社会にいらない存在」映画『月』があぶりだす、誰の心の中にも存在する優生思想_img0
写真:Shutterstock

さとくんは、「心がないならば人間ではない」「障害者は不要な存在」という思想のもと、実際に殺人に及びます。さとくんの先鋭化した優生思想は、一見異様なものにも見えるかもしれません。一方で、日本には1948~1996年に旧優生保護法というものが存在しました。この法律のもと、障害者に対する強制不妊手術が行われていました。国家が、生まれるべき命とそうでない命の選別を行っていたのです。今でも、強制不妊手術の被害者が国に賠償を求める裁判は全国各地で続いています。そのニュースが記事になる度、コメント欄は「自分の世話もできない人が子どもを産んではいけない」「障害者が子どもを望むのはおかしい」といった主旨のコメントで溢れます。障害者同士の夫婦が子育てをしていることがテレビで取り上げられると、非難の嵐が起きました。そんな様子を見ると、建て前の部分でも、優生思想を批判さえしない人は今でも本当に多いのだと痛感します。障害者にも子どもを産む権利がある、というのは多くの人にとっては建て前や綺麗事ですらない、絵空事なのです。