「障がい」と表記しても何も解決しない。障害があるのは社会の側ではないのか


さとくんが言うように、隠された本音の部分では、社会の中に優生思想は色濃く存在していると思います。正直、優生思想を持っていない人なんていないとも思います。持っていながらも、洋子のように理性で律しているのではないでしょうか。

筆者の父親は精神障害者で、定職に就けなかったため、家庭は経済的に困窮し、苦労が絶えませんでした。貧困家庭で育った体験を書くと、よくこんなことを言われました。

「障害者が子どもを作るからそうなるんだ」
「障害者は子どもを産んではいけない」

「障害者は子どもを産むな」「障害者は社会にいらない存在」映画『月』があぶりだす、誰の心の中にも存在する優生思想_img0
写真:Shutterstock

正直「私にそんなこと言われてもなあ」と思いました。つまりそれって、私は生まれてきてはいけなかった存在って言われているようなものですから。

障害者が生きていくのは大変です。障害者をサポートする人も大変です。でも、それは社会にバリアがあるからです。障害者が健常者と同じように生きられるように、社会の整備が追いついていないからです。

 


よく「障害者」を「障がい者」と表記するという配慮があります。これに対し、乙武洋匡さんは「『障害』を『障がい』と表記しておけばいいだろうという安直さにドロップキック。」という記事の中で次のように疑問を示しています。


「障」だって「差し障る」という意味なので、社会にとって差し障りのある存在といったイメージを与えかねません。こちらも「しょう」と表記しなければならないのでしょうか。

「しょうがい者」

いやあ、いいですね。やわらかい響きですね。これなら誰からもクレームが来ず、なんだか地球環境にまでやさしいイメージが湧いてきますね。

なめんなよ。

と、思うのは私だけでしょうか。

 

「障がい者」と呼ぶようにしたところで、そう呼ばれる人々に向けられる意識や彼らを取り巻く環境を変えていかなければ意味がない。