夫が疎外感を抱いた理由
そしていよいよ6年生、受験生になった頃、由梨さんが驚きの提案をしてきたといいます。
「成績が落ちているのは、私が壮馬に伴走できていないせいなの。正直に言って、あなたのご飯の支度やお世話がなければ、もっと時間が確保できる。あなたの夕飯を作っているその時間を壮馬の教材整理やサポートに回したい。金曜夜から3泊は、塾の近くのホテルに泊まりたい」
そう主張する由梨さんは、至って本気でした。うまくいったら学校に通わなくていい夏休みは民泊で1カ月宿泊したいと言ったそうです。
「それって、要は僕が邪魔だから隔離したいってことですよね。僕の世話が煩わしいと。でも、言わせてもらえば僕、そんなに手がかからないほうだと思うんです。皿洗いや掃除はしますし、洗濯物だって畳みます。でも妻は、とにかく僕のことを5分でも世話するならば、その労力で息子のサポートをしたいというのがありありと見て取れました。その瞬間、気持ちがスーッと冷めたというか……僻んでるのかもしれないけど、とにかくがっかりしちゃったんです。蚊帳の外だし、お金だけはとられて、一体僕は何なんだろうって」
取材中はほとんど口をはさむことなく聞き役に徹していました。おそらく、このお話を由梨さんからきくと、また違った側面が視えて来るのだろうという気がしました。
それが夫婦の難しいところです。とにかく由梨さんが夫のことを受験勉強の邪魔に思い、目的の場所に強い気持ちで向かっているのは伝わってきました。
由梨さんは本気だったようで、ほどなくして「週末母子勉強合宿」が始まりました。同時に、派遣社員として週5で勤務していた職場を、週3日勤務に契約変更したといいます。もちろん息子の受験サポートのためでした。
「6年生は塾や個別指導に年間200万円以上かかるのに、ホテル合宿をしておいて、妻の収入は300万円から150万円ほどにダウン。おまけに受験のために毎日のようにグッズをネットで買い足すんです。ノックの労力が最小ですむシャーペン、安眠枕、姿勢が良くなる椅子、ものすごく目に優しい電気スタンド……。どれも数千円からせいぜい数万円。でもうちは普通のサラリーマンですから、毎日そんなもの買っていればあっという間に家計は火の車です」
そこまで本気で伴走すると、壮馬くんの成績はやはりすごく上がるんでしょうか? と思わず伺ってしまいましたが、成績は下降していたと博己さん。比例するように博己さんは白けていき、夫婦仲は次第に険悪になっていったといいます。
とは言え、ここまでは最近の過熱した中学受験界隈ではあり得る話だと感じました。ところがさらに雲行きは怪しくなっていきます。
「夏休みは、勉強時間確保の意味合いもあり、塾のすぐ近くで缶詰になっていたため、僕は1カ月ほども顔を合わせませんでした。その間に、妻はネットで『御三家OBであり熱心な中受パパ』のような人々にコンタクトをとり、その伴走法をきくために情報をやり取りしていたんです。彼女に邪心はなかったのはまあ、わかります。でも、頻繁にDMを交わし、情報交換とはいえ食事をしたりしているようでした。それを知ってしまったとき、うまく言えないんですが、もう本当に嫌になってしまって……。そのお金も時間も、夫である僕から搾取したものじゃないか。そして肝心の息子の進路なのに、なんで僕じゃなくて他人に相談するんだ? そんな気分でした」
筆者も子を持つ親なので、母親が少しでも情報を集め、いい選択をしたいという気持ちは分かりました。おそらく由梨さんはひたすら必死で、今しかない、この数年の最優先は息子だと思い定めているのでしょう。
今回のケースでは妻はほとんど子どもと同化し、中学受験を自分ごととして捉えているものの、夫はもう少し客観的な視点を持っています。そして子どもを最優先にして家庭内リソースの全てを懸けるという状態は、夫婦関係においては必ずしもいいことではないと言わざるを得ません。
このあたりから家庭に居場所を失ったと感じ始めた博己さん。
後編では、妻が最高潮に集中力を発揮する一方で、夫が少しずつ反旗を翻した経緯、そして夫婦の決断について伺います。
取材・文/佐野倫子
構成/山本理沙
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