被災地応援の意味をこめてブルーインパルス。
被災地応援の意味をこめてブルーインパルス。
被災地応援の意味をこめてブルーインパルス。
言葉を一つ一つ噛み締めながら何度か書いたら理解できるかもと一縷の望みを持っていましたが、当たり前ですけどやっぱり意味不明でした。
今回は「被災地応援の意味をこめてブルーインパルス」が、自民党の裏金体質と繋がってるんじゃなかろうか、というお話を。
被災地の瓦礫の撤去作業もなかなか進んでいない状況で、1機20億円とか30億円とかする飛行機の連隊を数百万円の燃料費をかけて飛ばすっていう発想には、多くの国民が「どうかしてる」と思っていると思います。
こういう政治家たちが何かにつけて「適正に判断して」と言うのを聞いていると、君らのような人を一般社会では「ちゃんちゃらおかしい」「噴飯もの」もしくは「無能」って言うんですよと詰めてやりたい気持ちですが、まあそのあたりの追及は頭のいい人たちにおまかせするとして。
私がさらに呆れたのは、このブルーインパルスがそもそも予定されていた「北陸新幹線の福井・敦賀開業の祝賀飛行」の「ついで」だということです。
これはここ10年くらい何度も使われてきたパターンで、一番わかり易いのは「東京2020オリンピック」でしょうか。
当初「復興五輪」として喧伝された東京オリンピックは、折しも始まったコロナ禍によってさらに「コロナに打ち勝った証に!」という美名を冠したイベントに発展したのは記憶に新しいところ。でも結局のところ、東京オリンピックの聖火リレーは「復興してる場所だけ映すコース」になり、世界に日本が復興している風をアピールしただけ。五輪の費用は3兆円を超える一方で、復興予算は2021年度以降、ピークの4分の1に減らされたといいます。NHKの東北3県被災地アンケートでは「五輪が復興の後押しになった」と答えた人は11%。
個人的には「そんなん最初からわかりきったこと」と思うのですが、このやり口の「ズルさ」がより明確になるのは「コロナに打ち勝った証」という点です。というのも、そもそも「コロナに打ち勝つ」には明確な判断基準がありません。五輪の開会式が始まった途端に、高熱を出していた日本の全コロナ患者の熱が一斉に下がった! とか、日本の金メダリストの汗を染み込ませたマスクは通常のマスクより100倍コロナウィルスを跳ね返すと科学的に実証! とかなら、私だって「わお、打ち勝ったぜ!」と小躍りするところですが、この場合、五輪をどうしても開催したい派が「五輪開催したら、コロナに打ち勝ったってことで」と勝手にいい切っちゃっただけ。
「試験に合格したら、付き合ってくれ」みたいな勘違いな人がいますが、あれとどこか似ています。試験に合格しても、そもそも私あなたのことぜんぜん好きじゃないし—— という手前勝手で当事者無視なあの感じ。つまるところ復興もコロナも、五輪を開催したいがために後付けした「体のいい言い訳」でしかないわけですね。
実質的な効果が望めないのは最初からわかっているのに、なぜそのふたつが言い訳として「体のいい」感じがしちゃうのか。理由はふたつあるように思います。
ひとつは「勇気」「絆」「希望」「感動」といったまばゆい言葉をちりばめることで、さも大衆ウケする「美しげな(もしくは、楽しげな)目眩まし」ができるから。
そしてもうひとつはコロナや復興に対して、国が「なんかやってる風」に見えるから。
東京五輪、大阪・関西万博、ブルーインパルス、そして都庁のプロジェクションマッピングも、すべてがそういう世界のものに思えます。
国民には自助と共助ばかりを求めて、公助についてはのらりくらりと先延ばしにする日本の政治家が、何をおいても——時には民意さえも置いてけぼりで、じゃんじゃん金をぶっこむのは、祝祭的なイベントやイメージ戦略ばかり。
一万歩譲って、計画的に予算どおりやってくれるならまだしも、動き出してみたら100億円足りませんでした、やってみたらあと500億円必要でした……と青天井の上ブレを後出ししてばっかり。
ここに来て本当に酷いと感じるのは、そうした動きを正当化するために、いまここにある災害や不幸さえも利用して憚らないこと、心が全くないことを隠そうとすらしないことです。ブルーシートに覆われた被災地の瓦礫の上をブルーインパルスが祝祭的に飛んでゆく、そのことが被災者にどれだけの惨めさと孤独を味わわせることになるか。勇気を与えると本気で信じているなら、政治家なんて即刻やめちまえと言いたい。
もちろんこうした状況を「やると決まってしまったんだから仕方ない」「せっかくやるなら文句を言わずに楽しもう」「国も一生懸命やっているのだから」と、なしくずしにされるままに受け入れてきた国民も悪い。
本質が欠如した「何か」に金がじゃんじゃん注ぎ込まれるのは、それを簡単に受け入れてしまう人がいるから。聖火リレーやブルーインパルスの目眩ましで「復興が進んだんだな」と安心してしまう、都庁のプロジェクションマッピングが輝く一方でダンボールで暮らす人がいるなんて思いもしない、そういう人たちがいるからです。
思うに、そうした本質が欠如した金の使い方は、まさに今起こっている裏金問題と表裏一体だと私は思います。キックバックだか利益率9割の政治資金パーティーだか知りませんが、濡れ手で粟で手に入れた裏金を、使途も聞かれず、領収書もなしで好き放題に使っている人が——そしてそういうありようこそが政治だと思いこんでいる人が、五輪であれ少子化対策であれ、まともな予算を組めるはずがない。足りないなら、他で無駄を省いて……なんて発想するわけがありません。
この30年、そういうふうにやってきた人たちは「国民はどうせ従順で面倒くさがりで、ものごとを深くは疑わず、なにか他に興味を引くことがあれば、すぐに忘れてくれる」と思っています。ならば最も力を入れるべきは「美しげな目眩まし」。
政治倫理審査会で「親分を守り抜いた、仁義ある二階派の武田良太事務総長」なんてのも、一部の人にとっては非常に心に訴える「美しい目眩まし」なんでしょうね。
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