これから確定申告するのが馬鹿らしくなる政権の腐敗と、元旦に能登で起きた地震とその被害、そのあまりのギャップに頭の中がバグってしまい、このところ自分が機能停止に陥っているのを感じます。

 


東日本大震災の時は、自分の周囲の社会全体がそういう感じだった気がするのですが、今回は世の中がそうそうに通常営業に戻っているような。特に被災地に対する様々な冷淡さを感じます。 

政治で特に感じたのは、自・公・立憲・維新・共産の党首が5日に集まって当面は「“被災地に行かない”という判断で合意」というニュース。
最初に聞いた時は、一瞬「“被災地に行く”という判断で合意」かと勘違いしました。政治こそがまっさきに動き様々な判断をすべき時だし、大名行列で被災地に迷惑をかけないよう、タイミングを見計らい、何をチェックすべきか確認し、さらに被災者に対する「政治はあなた達を見捨てない」というメッセージも含めて……と思ったわけですが、実際は「“みんな行かない”で足並み揃える」という合意だったわけです。
正直言って私には、まっさきに現地に向かった政治家の行動力と現場力を持たないおっさんたちの嫉妬と言い訳と、「ぬけがけしていい格好すんなよ」という互いへの牽制にしか見えませんでした。 

 

日本は本当に地震の多い国で、東日本大震災以降だけで震度7以上の地震が5回も起きています。にもかかわらず、いまだに「避難所=体育館で雑魚寝」という状況に驚かされます。
今回の災害では珠洲市や輪島市など市内の多くの建物が半壊~全壊という状況で、さらにプライバシーのない避難所のストレスや、女性や子供への性被害の顕在化をもってしてなお、変わっていかないのはどういうわけなのか。
こういう事を言うと「国も頑張ってる」と反発する人もいるでしょうが、結果責任がすべての政治において、税金を払っている国民自ら「がんばったで賞」で評価する意味が私にはさっぱりわかりません。小学校の作文コンクールじゃあるまいし。
そもそも国会で絶対的に多数派の政権与党は、やる気になればなんでもできます。やりたいことは国会すら通さず閣議決定だってじゃんじゃんやっちゃってるわけで、つまるところ「やる気がなかった」 以外の何ものでもありません。 

そうした状況の中で、被災者が様々な怒りや苛立ちを溜め込んでいることは想像にかたくありません。心が痛むのは、彼らがそれを表現することを憚っていること。例えば七尾市の避難所に「一方的においていかれた大量の賞味期限切れ食品」というこのニュース。感染症の蔓延は命取りである被災地では、もしかしたら傷んでいるかも、という食品は使うことはできません。仕分けに人を取られた挙げ句に殆ど廃棄という状況に、炊き出しボランティアの某有名シェフの「被災地を何だと思っているのか」という怒りこそもっともだと思うのですが、同じニュースを報じた別の記事ではニュアンスは微妙に異なります。記事を締めくくる「善意はありがたい、でも送る前に賞味期限を確認してもらえると助かる」といったような言葉からは、必要最低限以下の扱いに、被災者が日々、自尊心を削られていることが感じられます。怒りの先にある諦めは「贅沢言ってる場合か」と攻撃され、支援が遠のくことへの恐れかもしれません。 

マスコミが「怒り」で報じないのは、そうした住人の思いを汲み取った一定の配慮とも言えますが、なんだか私はモヤモヤしてしまいます。というのも、こういう流れが被災者を「辛い状況に文句もいわず、耐え忍んで淡々と前を向く被災者」の定形に押し込め、「これこそ日本人の美徳」と賛美する空気を醸成してしまうように思えるからです。そうした空気の中、被災者はますます「支援者のお気持ち」を気遣うことばかり求められ、トンチンカンな支援に「違う」「勘弁して」と言いにくくなります。

 
  • 1
  • 2