「好きならば結婚する」という結婚の純化は、日本で起こりうるか?


欧米では、人々は「結婚=愛情」に主眼を置き、「経済的安定性」を捨てることで、いわば「恋愛至上主義的結婚」を達成してきました。すなわち「結婚の純化」です。「好きならば結婚する」「好きでなくなれば別れる」、そんなシンプルな選択をする人が増えたのです(欧米では「結婚」という選択をせず、同棲やパートナー制を選ぶ人も多いですが、「未婚社会」日本は、結婚以前に恋愛すらしない若者も増えています)。

日本社会にも今後、欧米のようなルートで「結婚の純化」が起きる可能性はあるのでしょうか。

率直に言って、それは難しいと思われます。日本社会で「結婚の純化」が起きるためには、克服すべき三つのハードルが存在すると私は考えています。

 


「結婚の純化」を阻む最初のハードルは「家族」への期待!?


欧米で「結婚の純化」が可能だった理由の一つが、国家が「家族単位」ではなく「個人単位」で、社会保障制度を設計してきたからです。本人の所得が低くても、そのセーフティネットは「家族」ではなく「社会」「国家」が担います。シングルマザーでも、まずは頼るのは親・きょうだいではなく、「社会制度」です。誰と結婚しようが離婚しようが、未婚のままであろうが、未婚の母になろうが、「経済的安定性」は別問題で、そこは最悪のリスクを回避することができる。要するに、結婚して子どもを持ったら最後、人生詰んでしまう……という恐れがないので、人は自らの「好き」という感情に従って人生の選択ができるのです。

 

そうした社会福祉的整備は、いまだ日本では実現していません。生活保護もまずは面倒を見る「家族」がいないかが真っ先に問われる日本で、未婚の母ともなれば、親子共に貧困層に真っ逆さまに落ちかねません。日本社会では、政府や社会制度が人々のセーフティネットになる以前に、「家族」が一番のセーフティネットとして期待されているのです。

そうなると、「個人」の感情だけでやすやすと「結婚」という人生の重大事を決めることはできないと若者が考えるようになっても、少しも不思議はありません。

さらに日本では、結婚は「親族の結びつきである」という意識が根強く残っています。

結婚すれば義理の家族の面倒も見なくてはならなくなるかもしれない、そう思えば、結婚に慎重になるのも致し方ありません。

さて、日本で「結婚の純化」が起きない二つ目の理由は、「個人化」の問題で、三つ目は日本社会特有の「世間体」の問題ですが、これらを順番に見ていきましょう。