妻の後悔の理由
「夫は睡眠中、いびきからの、無呼吸になる時間があって。テレビで睡眠時無呼吸症候群という病気があると知り、一度病院で検査したほうがいいよと強く勧めていました。でも、まあ次の人間ドッグでね、と忙しさを理由に先送りにしていて。
あとで聞いたところ、無呼吸症候群は脳梗塞のリスクと無関係ではないらしく、もっと早く検査をするべきだったと悔やんでも悔やみきれません。家族として、寝室が一緒なのは私だけなのだから、気づいたら引きずってでも病院にいけばよかった……。
それから倒れる数ヵ月前は、仕事が忙しくていつも元気な彼がちょっとぼーっとするような時間があったんです。注意力散漫というのでしょうか、気が抜けたようにぼんやりしている瞬間が多くなりました。
睡眠不足だからしっかり休もうねと話したんですが、仕事のことなので自分ひとりではどうにもならないこともあったみたいで……。忙しい、って言うのが好きじゃない人だったので、涼しい顔をしてだいぶ無理をしていたんだと思います」
里美さんは普段からとても智樹さんのご様子を見ていらして、家族としてできるだけ声をかけていたのがよく伝わってきます。だからこそ、防げなかったことをとても悔んでいらっしゃいました。
智樹さんの手術は成功と言えるもので、命をとりとめることができました。しかし目が覚めてみないと、どの程度体のどこに麻痺が出るかはわからないと医師から告げられます。
祈るような気持ちで病院に泊まる里美さん。緊急手術の最中には、智樹さんの成人したお子さんと、その母である元奥様の連絡先をスマホで確認し、一報も入れていました。術後に駆けつけた娘の絵里さんと会うのは2回目でしたが、緊急事態のため、挨拶もそこそこに一緒にICUにいる智樹さんに付き添ったといいます。
翌日午後、智樹さんは目を覚まします。医師に呼ばれ、ベッドのそばで智樹さんをのぞき込むと、じっとこちらを見たそうです。安堵の涙を流す里美さんは、にわかには信じられない言葉を耳にしました。
「ああ、絵里、お前か……お父さん、どうしたんだ? そちら、誰?」
その時の声の調子を、落差を、一生忘れないと思います、と里美さん。
智樹さんは娘の顔はすぐにわかったものの、里美さんの顔はまったくわからなかったのです。
「術後の一時的な混乱だと思うと先生も看護師さんも言葉をかけてくださいました。彼はすぐ眠ってしまいましたが、私はその夜、混乱と絶望の気持ちで……。肉親である絵里さんと彼の絆の深さと、対照的に、5年ほどの彼と私の付き合いの奥行きとの差を見せつけられたような気がしました。お互いにたった一人の家族だと思っていたけれど、私のことは完全に忘れられて、娘のことは一目で判別した。そのことがとてもショックでした」
仲睦まじかったおふたりのお話をきいたため、筆者も里美さんのショックを想像して言葉がありませんでした。いっそ娘のことさえも忘れていたならば、まだ……そんなふうに思ってしまうのも、わかるような気がします。
後編では、社会復帰を目指す夫の前に立ちはだかる壁、そしてそれを懸命に支える里美さんの奮闘と彼女の意外な決断を伺います。
写真/Shutterstock
取材・文/佐野倫子
構成/山本理沙
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