そんな「天命」を一番感じた仕事は「海外中継」。25歳のとき、ナイアガラの滝の大型中継のリポーターを務めて以降、30代半ばまでは頻繁に海外ロケや中継を担当させてもらった。特に、30歳から4年連続で担当した『ハイビジョン生中継 世界遺産の旅』というシリーズ。制作陣、技術陣、現地スタッフなど50人以上の大中継団を組み、その国や地域を旅一座のように大型バスで縦断移動しながら、生中継番組を毎日出していくというシリーズだ。

「自分らしく働くためのトライ&エラー」を経て、天命の仕事に行き着くまで【50代の棚おろし・住吉美紀】_img0
世界遺産の旅1年目のスペイン。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂から、ゲストの作家・逢坂剛さんと地元の方の協力のもと、大掛かりな生中継。

毎年地域を変え、スペイン、ドナウ川流域(ハンガリー、オーストリア、チェコ)、イタリア、フランスと、それぞれの地域や民族の歴史、今の暮らし、地元の方々の心のうちを生の声で伝えた。

準備にかかる時間と手間は膨大、番組予算もとても大きく、スタッフの人数も多い。最後にバトンを受け取る私が本番で失敗したら、皆の努力がパーになるというプレッシャーは半端ではなかった。

しかし同時に、良い中継が出せたときに「お疲れさま!」と喜びを分かち合える仲間がいるという、チームワークの幸福感も、他に類がなかった。それに、海外で育った自分の経験や語学を活かして「遠い異国の暮らしや価値観には、日本の私たちが共感できる、心通じるものがたくさんある」と伝えられる嬉しさも味わった。

10日程の旅の間は、毎日移動時間が4〜5時間、現場に着いたら取材・下見、ホテル着後もスーツケースからそっとパンツと歯ブラシだけを抜き出し、あとは打ち合わせと準備。平均睡眠時間は2時間、起きて放送したらサンドイッチとリンゴの昼食を手に直ぐ再びバスに飛び乗るという、今思えば壮絶な旅だった。しかし、不思議なことに労働環境にまったく不満はなかった。充実感がそれを超えていた。

また、今も鮮明に覚えているのは、睡眠不足なのに思考と感性がキンキンに冴え渡って、「本番中、何が起きても大丈夫。今、針で刺されても痛くないくらい、なんでも来い。私に任せて」と、後にも先にも体験したことのないほどの、腹の座った全集中な心持ちに至ったこと。これが一流アスリートが体験するとかいう”フロー状態”か、と思った。

このような、非日常な強い使命感とやりがいを体験し、「これは私の天命で、このためにアナウンサーになったのだ」という高揚感を一度でも味わえたことは、自分という存在の核に触れるチャンスとなり、今尚、私を支え続ける。こういう働き方が皆におすすめとは決して言わないが、自分の限界までやってみること、がんばれるんだという経験を一度でもすることは、その後の人生を左右するのではなかろうか。

もうひとつ、自分の運命を変えたのは、多くの方に今も覚えていただいている、『プロフェッショナル仕事の流儀』の立ち上げキャスターの仕事だ。超一流のプロフェッショナルの方々に毎週4時間近くインタビューをした経験は、自分が仕事や人生で何を大切にしたいのかを思索する人生道場となり、「インタビューの仕事が好き」と自覚するきっかけにもなった。

そんな”プロフェッショナル道場”の影響も少なからずあり、37歳のとき、NHKを離れた。「自分の2本の足で社会の荒波の中で立てるのか、挑戦しなければ」。晩年独立した、亡き父のことも脳裏にあった。組織を離れた労働トライアンドエラーが、そこからまたはじまる。しかし、先には予想を超える、上手くいかない日々が待っていた......続きは、また。

 


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