「些細な習慣」が父を思い出させる


父とは別々に暮らしていたとはいえ、私の日常生活にはいつも父がいました。電話やメールがよくきたし、父はうなぎが好物だったので、ネットスーパーでうなぎを見かけたときは、「これを買っておいて、今度、父の家に行ったときに持っていこう」とか考えていました。
だから、父によく持っていっていたうなぎを見かけると、心がシュンとなるのです。
また、私が遊びに行く日には、父はいつもプリンを買って待っていてくれていました。そうすると、プリンをスーパーで見かけると、涙が溢れそうになるのです。
そんな「些細な習慣」があればあるほど、父を思い出し、悲しくなるのですよね。

晩年の父は、認知力と判断力が弱くなり、また感情と欲望に振り回されるようになってしまい、私も兄も手を焼いていたし、結構、喧嘩もしていました。
でも、なんだかんだいっても、お互いに相手の幸せを願っていたし、兄は「亡くなった今は、不思議と楽しかったいいことしか思い出さない」と言っています。
色々と大変なこともありましたが、父の死がこんなにも悲しいのは、その分、「楽しかったこと、幸せだったことがいっぱいあること」の証拠なのでしょうね。

 


親は「元気で幸せでいて欲しい存在」


私にとって親は、とにかく「元気で幸せでいて欲しい存在」です。それは、近くにいようが、遠くにいようが。「別に頻繁に会わなくてもいいから、とにかく存在していてほしい存在」「いるだけで、OK」みたいなところがあるのです。
だから、父が亡くなったときは、“何か大切なものが壊れたような感覚”を覚えました。

私にとって親は、「なにかあったときには、絶対的に私を守ってくれる存在」でもあるので、この世界からそういう存在が1人いなくなったことの心の痛手は、大きいです。
もちろん私自身、もうアラフィフなので、親に依存していたわけではありませんが、父の声を聞くと、どこか心がホッとするところがありました。それは、“絶対的に自分を受け止めてくれる相手”ならではの安心感だといえるでしょう。
そう思うと、もう父の声を聞けないのは、寂しいものです。

ただ、不思議なのが、父が亡くなってからのほうが、より近くにいる感じがするのです。それについては次のページで。