頭を下げているんだから…とやり過ごさないで


ある仕事で同席した泌尿器科医は、あくまでも個人的な実感だが、と前置きして「今の中年世代までの日本人男性のほとんどは、性サービスを身近な娯楽として経験しているだろう」と語った。避妊具を使わないなどの身勝手な行為で働く女性たちを危険に晒し、家族などに無自覚に性感染症を広めている男性がよくクリニックを訪れるという。

江戸時代の遊郭では、大規模な人身売買と性搾取の上に幕府や寺社や豪商らの巨大な経済圏が成り立っていたが、性の取引の現場は華やかで粋な世界として都合よく切り取られもてはやされてきた。最近ではそうした典型的な描き方が批判されるようになっている。遊郭がなくなったあとも性搾取の構造は温存され、明治期以降も都市部から農村部に至るまで幅広い層の男性たちに女性を買う習慣が広まり、1930年代後半には年間遊客数は3000万人を突破したという(国立歴史民俗博物館『企画展示2020 性差の日本史』図録より)。ちなみに当時の日本の男性総人口は3500万人ほどである。「家」制度のもとで親の借金を背負わされて売られる女性たちを、どこにでもいる男性たちが気軽に買っていた。タバコでも買うみたいに。この社会にはそういう風土がある。性をどう扱うかにおいて、その頃の視点と今とどれほど違うだろうか。

第二次世界大戦に敗れたのち、日本は奇跡的な経済成長を遂げた。それを可能にしたのは「男は仕事・女は家庭」でそれぞれに滅私奉公する構造だった。私の両親もそうして生きた人たちである。長時間労働で家庭を顧みる余裕もなく職場の男性ホモソサエティに生きる男たちは、仕事の仲間や取引相手と夜の街で「男の遊び」を共にした。先輩や上司に付き合わされた男性も多い。つい10年ほど前までは、ありふれたことだった。

自分の妻には夫と子供と老親の献身的なケアを担わせ、店で誰かの娘を気軽に買う。商品か家族かの違いはあっても、男性にとって女性は自由に価値づけできる性的存在であることに変わりはない。女性は男の都合で使い捨てにしていい女と専属世話係の女とに線引きされ、誰にも冒すことのできない意思と尊厳を持った一人の人間とは認識されない。

この社会で育つと、性について何を学んでしまうのか。男はケダモノで女はモノと同じだよと我が子に教え込む親はいなくても、成長するにつれてそのように深く学習してしまう。「教材」はあらゆるところに溢れている。私も子どもの頃から学習を重ねた。街中の看板で、電車の中吊り広告で、乗客が読んでいる雑誌やスポーツ紙で、テレビの深夜番組で、現在以上に頻繁に「エロい男たちと気軽で楽しい性消費」を目にする機会があった。私より少し年上の夫の世代もそうだろう。その一方で、性教育や同意教育は不十分で、働く人の権利や安全について考える機会もない。

「察して」で逃げずに言葉で説明できるようになった夫。夫の気づきと変化を敬うようなった私【小島慶子】_img0
写真:Shutterstock

そんな話をされても、と戸惑う人も多いだろう。性処理をしただけで浮気をしたわけではないのになぜ問題なのか。男なら誰でもしているようなことではないか。セックスの話なのに、どうして人権とか性差別とか、堅苦しい言葉を持ち出すのだろう? 理屈で殴られる自分こそ被害者だと、思うかもしれない。

夫とは何百時間と言葉を交わしたが、何を言いたいのかよくわからなかった。彼はつい最近まで自身を語る言葉を持たなかった。言葉にして思考する習慣がなかったか、その習慣を身につける機会を長い間奪われていたと思われる。そういう男性は少なくないと思う。そして私は私で、彼の戸惑い苦しむ様から非言語の情報をうまく読み取れていない可能性が高い。

申し訳ないと繰り返すばかりの夫に「謝罪ではなく説明が欲しい。そして抱負を語るのではなく行動で示してほしい」と言い続けた。ごめんなさい、もうしません、と繰り返してやり過ごそうとしないでほしいと。

そういえば、政治の世界でも「不祥事が起きても、謝って抱負を語っておけば、説明しないでもやり過ごせるだろう」という態度が顕著である。それに有権者が愛想をつかしたのが今回の衆院選の結果にも表れていると言えよう。

「ごめんなさい、もうしません」で説明を免れることができると考えるのは「察しろ」の暴力が通用する世界の住人である。「頭を下げているんだから、言いたくないことがあるんだろうなと察しろ」「もうしませんと言っているんだから、これ以上過去のことは触れるべきではないと察しろ」という、居丈高で甘えたコミュニケーションが通用する世界だ。

同質性の高い社会では「察しろ」の暴力が発生しやすい。というかほぼそれで回っている。家族の会話でも、親から子へ「察しろ」の暴力は頻繁に振るわれる。気を抜くと良かれと思って「察しろ」の拳を振り下ろしてしまう。親はこの話を聞きたくないんだなとか、こういう反応が欲しいんだなと子供が察知してしまうような圧力が働いている環境では、子どもは安心して自分の気持ちを言葉にすることができない。結果として、思考の機会すら奪われてしまいかねない。学校でも職場でも同調圧力と「察しろ、弁えろ」に晒され続けたら、本当に自分自身が何を考えているのか、何を感じているのかを言葉にして考える術を身につける機会がないまま大人になってしまうだろうと思う。

夫はここ数年で、孤独の中で少しずつ言葉を身につけた。「察して」という態度で説明から逃げていた以前とは違って、言葉をやりとりしていても上滑りな感じがなくなった。一体何があったのだろう。私にはわからない。日豪で日常生活の場が離れていることもあるが、一人の時間をどのように生きたのかは、他人にはわからないものだ。説明も大事だが、わからないものをわからないままにしておくのが大事な時もある。「どれほど近くても、私はこの人を知らない」という気持ちを忘れずにいるのが、人を敬うということなのかもしれない。

 


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