いつでもOK


「ふうむ、これはちょっとひどいね。歯磨き、さぼっちゃったかな? 歯間ブラシはお子さんもぜひお願いします。全然違いますよ。

今日は特にひどい2本は麻酔をして削って、仮のもので詰めましょう。6歳臼歯だからね、型を取ってきちんと被せものを技師が作ってくれます。もちろん保険診療内の素材を使います。ただ、最近材料費が高騰していてね、何本かそんな状態だから、今回と次回で1万円近くはかかるかもしれません」

一通り診察して、先生はお母さんを呼ぶと穏やかに説明を始めた。背の高い先生は、患者さんに説明するときはますます猫背になる。もう40歳だけど、とてもそんな風に見えない。気楽な独り身だからだろうか、先生にはいつだって生活感があまりなくて、とても穏やかだ。

「え……あのう、保険証がない場合はどうなりますか?」

お母さん……記入してくれたカルテによると「木村さん」は小さな声でそう尋ねた。お子さんの愛理ちゃんは6歳。痩せていて小さいので、年齢をきいて少し驚いた。住所は隣の町の住所が書かれている。

ただ、なんとなく、住所に部屋番号がないことが不思議な感じがした。一軒家だとして、このあたりは再開発でずいぶんと土地の値段が上がっている。木村さんは、大変失礼ながら、裕福な主婦、という感じではなかった。

――いけない、いけない。接客業をしていると、人を観察するのが癖になっちゃうのよね。

「保険証は来週持ってきていただければ構いませんよ。今日は、とりあえず可能な範囲で仮にお支払いいただけたら大丈夫です」

先生は、木村さんの不安を取り除くようにそう言った。やれやれ。10割仮払いしてといった私の立場よ。

でも先生ならそういうだろうと思っていた。お財布を忘れた常連のおばあちゃんには「来週までつけだよ」なんていって1円も取らずに帰ることもあった。

ただ、今回は初診だ。それとはちょっと事情が違う。

もしこの住所が嘘で、名前も偽名だったら、もう来ないことも考えられる。その場合、明日技師に発注する被せものは無駄になり、お金もこちらの損害になってしまう。患者さんというのは現金なもので、痛みが止まるともう来ないという人が10人いれば2人くらいいるものだ。もちろん治療の途中なので、早晩また痛むのだけれど。

そういう、喉元過ぎれば熱さを忘れるタイプのひとが結構いることが、この仕事をしていてよくわかった。

「先生、すみません、自費診療でお願いしたいんです。保険証が、ないんですこの子」

木村さんは、うつむいた。

「先生、この子保険証がないんです……」雨の夜、歯科医院にとびこみできた親子。歯が痛いと訴える幼子に医師が言った言葉とは?_img0
 

「保険適用で1万円てことは3、4万円お支払いしなくてはならないってことですよね? 今日は3000円だけあるんですけど……」

「じゃあそれで結構ですよ」

「え?」

「お金は払えるときで大丈夫。まずは歯を治しましょう。その代わり、約束してください。被せものは、今日歯を削って型をとって、来週技師が作ってきたものが納品されます。だから今日は仮止めです。来週は必ず来てください。そうしないと、そのうちさらに痛みます。それは絶対にだめですよ」

先生はきっとそういうだろうと思っていた。私は麻酔をセットしながら、うんうん、と内心でうなずいていた。

「先生……ありがとうございます……」

木村さんが、頭を下げる。もしかして、これまでも同じような流れで、完治させることができず、悪化させてしまったのかもしれない。歯というのは、結構完治に時間がかかるのだ。

――やれやれ、きっとまたこの治療代は長期間のつけ、ってことになるわねえ。忘れないようにしっかり書いておかなくちゃ。

私はほっとして、診察椅子で心配そうにこちらを見上げている愛理ちゃんの手をぎゅっとにぎった。

 

翌週。

木村さん親子は、予約の時間に、来なかった。

カルテに書かれた携帯電話は予想通り、つながらない番号。つまり、連絡を取る手段はない。

「もし電話がきたら、何時でもいいからすぐに来るようにお母さんに伝えてください」

先生はそう言うと、愛理ちゃんの被せものを、棚の一番目立つところに大事そうに置いた。

次回予告
再訪は予想外のタイミングで……?

 
小説/佐野倫子
イラスト/Semo
編集/山本理沙
 

「先生、この子保険証がないんです……」雨の夜、歯科医院にとびこみできた親子。歯が痛いと訴える幼子に医師が言った言葉とは?_img1
 

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