皆さま、こんにちは。

3月11日、皆さまはどのように過ごされたでしょうか。私は生まれも育ちも宮城県石巻市、北上川が太平洋にそそぐ豊かな漁場のある港町で、18才まで過ごしました。現在も両親が住んでいます。

写真はすべて2011年10月、メルボルンに移住する前 と石巻を訪れた時、私が撮影しました
実家から10分ほど歩いた地区。このあたりは地盤沈下で全地域が80センチほど沈んだそうです。

7年前の3月11日、産休中だった私は、1歳になったばかりの息子をエルゴでだっこして、確か上野の先の方にある小さな駅まで展示会を見に出かけていました。4月に職場復帰したら当分は石巻には来れないからと、息子と私の誕生日を祝うため、10日前に石巻から帰ってきたばかりでした。

震源地は東北と速報で知ったものの、まさか自分の実家があんなことになっているとは、想像していませんでした。石巻市は特に被害が大きかったため、私の両親、妹家族、親戚、友人も被災しました。両親、妹家族は無事でしたが、行方不明者の中に、いまだ帰らぬ親戚がひとりいます。

こちらは被害の大きかった門脇地区にある門脇小学校の校舎です。生徒は避難できたそうですが、重油が流れてきたため、火災がおきて全焼しました。
1階の高さまで津波がきて、一階すべてをぶち抜いていった津波の威力がわかる写真です。

その日は、市ヶ谷にある自宅まで4時間以上かけて徒歩とバスで戻り、それからはグーグルの緊急用のサイトとツイッターと使い、被災地マップを見ながらなんとか安否が分かるようにとPCに向かいました。子供を見ながら親戚の電話に対応してと・・・・ 実は、家族全員の安否が分かるまでの4、5日間はあまり覚えていません。気をしっかり持たないとと思って、泣く時間もなかった気がします。

ただ、鮮明に覚えているのが、朝起きた時の喪失感です。「もしかして、もしかすると、家族全員が津波に流されたのでは」という喪失感と、「どうしたらいいのか」という焦燥感のような、なんとも言えがたい、重い重い気持ちで迎える「寝覚めの悪い朝」は、今でもはっきり記憶しています。

震災から7か月たった時点でも、石巻市内のいたるところにこのような風景がありました。日和大橋に向かう道路上に転がる、巨大なタンク。
積み上げられ、処分を待つ車の数。被害が大きさがここからもわかります。石巻には、がれきの山、車の山が1年以上もありました。

 

でも、本当に大変だったのは、被災地にいた皆さんですよね。最愛の家族を失った方も多く、震災後の数か月も本当に過酷でした。今でも仮設住宅に住む人も多くいらっしゃいます。

3月11日、毎年我が家では

「家族が全員生きていること」

「健康に過ごせること」

「今を楽しく生きること」

を家族で確認する日になりました。この日ばかりは恥ずかしがらず、日本の家族にも電話やメールでお互いに感謝の言葉を伝えます。特に大変だった妹は「生かされたことをありがたく思う日」と言います。

こちらも特に被害が大きかった女川町。ここからすぐの所に親戚が住んでいて、子供の頃よく遊びに来たのを覚えています。
女川町立病院から町を見下ろしたところです。町全体が跡形もなく流されていて、愕然としました。丘の上に立つ病院なのですが、1階まで津波が来たそうです。

今年も石巻に家族で帰ります。子供たちは日本への旅行を心待ちにしていて、大人はとびきり新鮮な魚介類と、着実に変わっていく街の復興を楽しみにしています。その時は、ぜひ皆さまに「石巻のいま」をお伝えできればと思います。

被災地の方も読んでくださっているかもしれません。一日も早く、被災地の皆さまの心が癒えますように。今も行方不明の2539人がいつか全員ご家族の元へ帰れることを、心から願っています。「がんばれ!東北」オーストラリアから心を込めて。

それでは、皆さま Have a good day!