バタDaiGoさんの「ホームレスの命なんてどうでもいい」に乗っかるのも、それと似ているのかも。自分は社会に甘えず、自己責任で生きている人間だ、という。

浅田:でも実際は「自己責任」ですませられることなんてほとんどないんです。たまたま「多数派」だったり、たまたま恵まれた環境におかれていただけだったり、もしくはたまたま貧困家庭の生まれだったり、今の社会構造の中でたまたま貧しさや不自由を強いられているだけで。そうでなくても、子供時代や年老いた後は誰かのお世話になることもあるわけだし。何かといえば自己責任論を持ち出す人は、「社会は“持ちつ持たれつ”でしか成り立たない」という絶対的な認識が欠けていると思います。
 

「迷惑をかけるから」と控えさせる意識がバリア


バタ自己責任ではないということは、やっぱり社会の責任なんでしょうか。ちょっと飛躍しすぎかな……。

浅田:ちょっと見方を変えてみましょうか。NHKの福祉関連番組の制作班では、障害は「個人」が持っているのではなく、彼らがいる「社会」のほうにある、と理解していたんです。例えば、車椅子の方にとって、階段の多い傾斜地や、山の中の暮らしは、大きな障害ですよね。でもスロープやエレベーターがある環境であれば、そこまでの障害にはなりません。そう考えると、障害の有無や大小は、その人が置かれた時代や環境によって結構変わってきますよね。

バタなるほど。

浅田:例えば日常生活に困らない人も、高齢になって足腰が弱くなると、階段の多い駅などには「障害」を感じますよね。ベビーカーのお母さんもそう。物理的なバリアだけでなく、電車内で子供が泣きやまない時に感じる他人の視線も、そうした社会認識を障害と感じているということ。迷惑をかけるから出歩くのを控えるとか、意外と同じ苦労を感じているんですよね。

 

アツミ:状況によっては、誰もが「社会生活の中で障害(バリア)を感じる人=障がい者」になりえる。「障害」を「バリア」と言い換えると、すごく腑に落ちます。それをなくすことが「バリアフリー」ってことですよね。

 

浅田:環境が「バリアフリー」になれば、「いわゆる障がい者」も障がい者ではなくなるんですよね。「障がい者」という特定の概念でカテゴライズするのではなく、人それぞれ環境によって苦労があるという発想に転換すれば、もっと楽に生きられる人が増えると思います。

バタ物理的なバリアはもちろんですが、精神的なバリア=認識を変えるのは時間がかかりそうですね。

浅田:だから、多様な人と接する機会を作ること、社会の「インクルージョン(包摂)」が必要なんです。相模原の「障害者施設殺傷事件」の後に、福祉の業界で起こった議論ーー「施設」なのか、「地域」なのかというのがそれで。つまり必要なのは、障がいのある人を、施設に閉じ込めるのではなく、地域に溶け込んでもらうことなんじゃないかと。学校においてのインクルーシブ教育も大事ですよね。子供のころから、障がいのある人と一緒に学ぶことで、多様な社会に慣れていくことが重要なのかなと思います。

「インクルーシブ教育」とは
障がいのあるなしに関わらず、子どもたちを普通学級で受け入れることを推進するために、垣根なく、イノベーティブな技法を取り入れた教育のこと。2006年12月の国連総会で採択された障害者の権利に関する条約で示された「障害のある者とない者が共に学ぶことを通して、共生社会の実現に貢献しよう」という考え方に基づいています。日本でも2012年に文部科学省によって「文部科学省によって「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進」が明示されました。
※参照:文部科学省
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1321668.htm


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アツミバタ本日もありがとうございました。

浅田環さんテレビディレクター。障害者の暮らしやジェンダー問題に関する番組を多く制作。2012年からNHK「ハートネットTV」など福祉関連番組に携わる。

取材・文/渥美志保
構成/川端里恵(編集部)
写真/shutterstock

 


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