「自由奔放で明るく創造性に富んだ国」と乖離した実情

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その二つの事件が数ヵ月の間に立て続けに起こった背景として、イタリアの総選挙が控えていたことを内田さんは指摘します。そして、イタリア政治と国民との関係性について、このように見つめていました。
 

 


右か左か、中道か。
近年、イタリアには有力な政治家が存在しない。一人政党を含め、少人数の政党が林立し混迷が続く。与党と野党も各様にまとまらず、国として重大な決断を迫られる案件も討議されないままに、次々と背後に置き去りにされたまま埋もれていくばかりだ。

今回も選挙前からすでに、絶対多数政党不在の宙ぶらりん議会となるのは必至、とされ、この先も政治的混乱は避けられない見込みだ。

国民は疲れ切っている。自由奔放で明るく創造性に富んだ国、というイメージの強いイタリアだが、実像は外面とはかなりずれている。大半のヨーロッパ諸国と同様にイタリアも厳然とした階級社会であり、それぞれの階層が混じり変容することは難しい。富裕層は時を超えて富裕であり続け、それ以外は大衆のままだ。財力の多少が知力の高低に直結して、貧すれば鈍する、への劣化が強まる一方だ。

「左だ右だ中道だ、などと騒いでも、もう誰が信じるものか」

失業率と物価はますます高く、つれて出生数と幸福感は減り、税金と不満は上がる一方だ。昨年サッカーのワールドカップへの出場からイタリアが外れてしまったことも、「スポーツのこと」と、単純には切り離せないだろう。古代ローマ時代にコロッセオで猛獣との格闘に大衆を沸かせたのは、巧みに群衆心理を管理する統括者の策だったことを思い出す。

国民は、募る苛つきと虚しさ、疲弊感の矛先をどこに向けてよいのかわからない。
大勢の人が抱え持つストレスは、一触即発で暴力へと変わる。暴言や無礼は、まず弱者へと降りかかるものだ。
――『イタリア暮らし』より(『Webでも考える人』2018年2月23日掲載のコラム「強烈な春一番」)