その選択の意味

「マンションの玄関についてもそこからまた3分以上かかる家ってどうなのかしらね?」

ふふ、とほほ笑んだゆかりさんと、1対1で話すのは初めてかもしれなかった。いつもクールなイメージの彼女だったけれど、なんだか今日は柔らかい雰囲気。

「ゆかりさんのお宅は最上階だから。うちはその気になれば階段でも行けるんですけど、ここのコーヒー、無料なのに結構おいしいくてつい吸い寄せられちゃいます」

……しまった、いわなくていい自虐を。

ゆかりさんとはいろいろな意味で「階層」が違うような気がして、どうも気後れしてしまう。最上階に住む彼女と、4階の小さめの部屋と小さな土地を交換して、さらにローンを払っている我が家。勝手に意識して、何を話していいか分からない。だからって言わなくていいことまで口にして、どう思われただろうか。

 

「あなたって正直なひとね」

ゆかりさんは、本を閉じてバッグにしまうと、コーヒーを飲みながらこちらをみた。

「この前、お茶会で光輝の頑張りを認めてくれてありがとう。努力もしないで成績を上げたいみたいな人ばっかりでうんざりしてたから、ちょっと沁みたわ」

「え!? ああ、あの時ですか? いえ、そんな……」

ゆかりさんはバッグに手を伸ばすと、1枚のネームカードを出した。

「これ、みんなが知りたがっていたコーディネーターの連絡先。5年生にひとり、転勤で欠員が出たの。あなたの運が良ければ、もしかして、道が拓けるかも」

私はすっかり固まってしまい、ゆかりさんが差し出したカードを受け取るので精一杯。

「お金はものすごくかかるわよ。ものすごく。子どもの出来が悪ければ悪いほど、かかるわ。持ってるもの以上を期待するなら代償は大きいのが当然よね。でも、コーディネーターが担当した御三家合格率は今のところ100%」

もし本気なら今日中に連絡したほうがいい、と言い残してゆかりさんはマンションを出ていく。気がつけば、塾のお迎えの時間が近づいていた。

あとには、カードと、私が残される。

そっけない白いカードは、じっくり触ってみると上質な紙で光沢があり、電話番号と名字だけが書いてある。

――すごく、お金がかかるって言った。……すごくお金さえかければ、陽一が、御三家に入れる可能性があるってこと? そうなったらママ友たちにも一目置かれるんだ。ゆかりさんみたいに。

もう一度、カードに目を落とす。時計は20時を指そうとしていた。もう「今日中」のリミットは迫っている。

――これは、もしかして、マンションを手に入れたときと同じように信じられないチャンスがきたんじゃない?

私はごくりとつばを飲み込む。

大きな分岐点に立っていると、感じていた。ゆかりさんの言葉を反芻しようとするが、心臓がどきどきしてうまく考えがまとまらない。

「あら、紗耶香さん、こんばんは~。今からお迎え? 一緒に行きましょ。今日もあのふたり、小テスト不合格で居残りだろうからどうせ早く行っても無駄よねえ。あれ? そのカード、なあに?」

振り返るとカンナちゃんのママ。私はとっさにカードをポケットに隠す。その時確かに感じたのは、「深海魚を脱するたったひとつの方法を他人に譲りたくない」という気持ちだった。

「……ねえ、お願いがあるの、私、ちょっと急用ができて、今から電話をしなくちゃならなくて。陽一が塾から出てきたら、今日は一人で帰ってくるように伝えてくれる?」

なにか言いたげなママ友を残して、私はスマホを出しながら、足早にロビーの隅に向かう。冷たく無機質な窓に映る自分の顔を見て、私は反射的に目を逸らす。もう顔を上げずに、必死でカードに書かれた番号をダイヤルした。

どこかで、ばさりとお札の束が落ちる音がする。

 

次回予告
推し活を楽しむ44歳独身女子。ある日、メッセージが殺到して……?

小説/佐野倫子
イラスト/Semo
編集/山本理沙
 

 

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