2014年に発行されたエッセイ集『九十歳。何がめでたい』(小学館)がベストセラーとなった直木賞作家の佐藤愛子先生。この11月で御歳94歳になられた。が、驚くほど矍鑠(かくしゃく)とされており、よく話し笑われる。私たちmi-mollet読者の関心事や悩みについても、「ええっ、そうなの!?」と驚かれたり、呆れられたり。その佐藤先生は、実は激動の40代を送られている。そこから得た人生観、そして今の心境、生活について伺いたく、このたびインタビューを申し込ませていただいた。
3500万円の借金
40代はまさに最悪だった
佐藤愛子先生は、1923年に作家の佐藤紅緑と女優の三笠万里子の次女として生まれた。父親に猫可愛がりに甘やかされて育つが、第二次大戦中の二十歳で結婚した夫はモルヒネ中毒に陥り、悩まされる。その後夫とは別居し、母に勧められて小説を書き始め、45歳のときに直木賞を受賞することとなる。一方、私生活では32歳で二度目の結婚をし、36歳で長女を出産している。
こう聞くと、作家としての道を歩み始めてからは順風満帆だったかのような印象を抱くが、その40代について伺ってみると、「もう最悪でしたよ」というひと言が返ってきた。
「45歳で直木賞を取ったのですが、その1年ちょっと前ぐらいに夫の経営していた会社が潰れましたのでね。倒産と直木賞受賞と借金とがドッときましたから、もう私の40代というのは“日々これ戦い”という感じでしたよ」
夫の抱えた借金額は2億。佐藤先生は何と、そのうちの3500万円を肩代わりしたのだという。当時の3500万円であるから、その胸の内はどのようなものだったか想像もつかない。
「いや、借金取りがやって来ましてね、これこれのお金を返せって言うんですよ。そう言われると、借りて返さないのは悪いことに決まっているじゃないですか。向こうは無理を言っているわけじゃなくて、正当な要求をしているわけですし、私も目先の帰ってほしい一心で、肩代わりの判子を押しちゃったんです。それが溜まりに溜まって3500万円になったの。返す当てなんてなかったんだけど、私は金銭のことは阿呆だったもんだから。あのとき直木賞がこなかったら、もう首を吊ってましたね」
もちろんこのとき、「妻だから何も知らない」と逃げることもできた。が、その選択肢はまったくなかったという。
「逃げるっていうような卑怯なことはね、できませんよ。やはり武士としてはね。そりゃ、借金を肩代わりしたと知った友達からは散々に非難されましたし、うちの母なんかカンカンになって怒りましたけどね。だけど私は常に、正々堂々と生きたいんですよ。たとえば電車に乗っていたときに、ひょいと気がついたら向こうに借金取りが乗っていたりすると、次の駅でコソコソ降りたりしなきゃならないでしょう? 逃げるというのは、そういう日常になるってことですよ。それは嫌でしたからね。なかなか人には分かってもらえなかったですけど」
夫の提案で偽装離婚するものの……
借金の肩代わりをした夫とも、この頃離婚をしている。これは当初は、借金取りから逃れるための偽装離婚のつもりだったのだが……。
「その頃のことは『晩鐘』という小説にも書きましたけど、結果的に見ると夫が騙したのか、騙すことになってしまったのかはよく分かりません。ほら、借金取りの中にはヤクザのようなのもいるでしょう? そういうのが、借金をした男の妻であるというだけで、私のほうにも『返せ返せ』と来ます。夫は『そういう目に遭わせるのは忍びないから偽装離婚をしよう』と言ったんです。そうすれば私には借金がかかってこないから、と。『それで全部が解決したときに元に戻せばいいじゃないか。戸籍だけの問題じゃないか』と言うから、私は『それもそうだ』と思って離婚をしたの。そうしたら、そこにいつの間にやら次の女が入っていたんですよ!」
しかも佐藤先生がそのことに気づくのは、何年も後だったという。
「分かったのは4年後ぐらいですかね。私はそれを知らないで、やがて解決したら元に戻るという希望を持っていましたから、その希望のためにしゃかりきに働いてはお金を夫に渡していたわけですよ。そうしたら、そうじゃなかった。戸籍の空っぽになったところには、もう違うのが入っていたわけですよ。もう笑うよりしょうがないの、これは」
あまりに潔い受け止め方に、私たちはしばし言葉を失った。しかし笑ったからといって、佐藤先生が肩代わりした3500万円の借金が消えるわけではない。結果、40代は返済に追われる壮絶な日々を過ごすこととなる。
「もうね、辛いなんて思う暇がないと言いますか。目が覚めたら働く体勢ですから。その頃はちょうど、日本が経済成長に向かって駆け上がっていく、本当にこれからっていうときだったの。だから企業は儲かってしょうがないって、税金対策で経費を増やすために講演会をやるんですよ。それこそ、全部引き受けていたら毎日講演しなきゃならないぐらい依頼が来ました。本来なら私は小説家ですから、講演会なんて断って書くことに専心すべきなんでしょうけど、何しろ山のように借金を背負っているもんだから、来る仕事を断らないで全部引き受ける、そういう日々になったもんです。たとえば昼間は福岡で講演をして、夕方、飛行機で大阪へ向かってテレビ局へ行く。テレビ局の控え室で原稿を書いて、出演して、それで夜東京へ帰る新幹線の中でも原稿を書いて。家に帰ったら、その頃は娘が小学校の2年で一日寂しい思いをさせているので少し相手をして、それからお風呂に入るなり何なりして、23時頃から3時頃まで本格的に原稿を書いて。寝るのは明け方。そうすると子供が学校へ行くときは私は寝てるってことですから、子供は子供なりに戦わなきゃならないし。何ていうか、家じゅうが戦闘態勢。そんな40代でしたね」
亭主で人生が決まるなんて、
こんな馬鹿げた話はないと思った
夫の借金を背負ったうえ、当の夫はこっそり別の女性と籍を入れていた……。おそらく私たちが同じ体験をしたら、一生立ち直れないのではないだろうか……。
「そんなことないですよ。随分情けない野郎だな、これはもう別れても惜しくないな、と思いました。その程度ですよ。これが夫に依存して生きていたら腹が立ったと思いますよ。だけど依存どころか、どっちかっていうと私がお金を渡してやる立場でしたから、別にかまわないんですよ。第一、そんなクヨクヨしている暇があったら、講演をしていたほうがいい。とにかく金を稼がなくてはいけないという現実に追われてましたからね。やっぱり私は戦いに向いていますというか、戦闘的な人間にできてるらしくて。良かったのは、そうして走り回ればそれなりの報酬が得られたってことです。専業主婦でずっときたりしていると、走り回りたくてもそう簡単にはね……」
実際、「離婚したくても収入がないから仕方なく一緒にいる」といった読者からの悩みが寄せられることは多い。
「働くったって、せいぜいアルバイトかパートですもんね。私たちの世代は女が自立するように教育されてませんから。とにかく男に養ってもらって、子供を産んで舅、姑に仕えて、何事もなく一生を終えるのが女の幸せだと決まっていた時代ですから。だから亭主が不出来だと、女は共に惨憺たる人生になるわけですよ。それで私は、こんな馬鹿げた話はない、と思って別れましてね。だって自分は一生懸命生きてたって亭主の出来が悪ければもろとも倒れるんじゃ、これはもう一緒にいられないという感じでしたよ。その後直木賞が転がりこんできたのは、神様のお恵みとしか思えませんけど。というのも私は、その前に候補になってダメだった作品のほうがいいと思ってましたから。何だこんな賞、と思ってたけど、賞をもらうということはそれで作家として食べていける保証をもらうようなもんですからね。履歴書にも「職業・作家」と書けますから、そりゃみんなもらいますよね。それで私は文句を言いながらもらったわけですよ。そうしたら文藝春秋の人に、『同じ賞をあげるなら、心から喜ぶ人にあげたかった』って嫌みを言われましたよ(笑)」
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