風情ある古寺の数々、情緒溢れる街並み、穏やかな海を臨み、江ノ電に乗ってのんびりと買い物に出かけたり、家族で通うレストランで食事したり。鎌倉暮らしに憧れる人は少なくないでしょう。実際に、忙しない東京から鎌倉に引っ越した人は多く、数年前にはそんな女性を主人公にしたドラマがちょっとしたブームにもなりました。

 


先日、作家の甘糟りり子さんがその鎌倉暮らしについて綴ったエッセイ集『鎌倉の家』を刊行されました。甘糟さんは幼少期より鎌倉で暮らしていましたが、20代後半からは広尾・麻布・芝浦などで暮らし、40代前半で鎌倉の実家に戻ります。

現在は80代のお母様と二人暮らし。戦前に建ったという日本家屋は、高い天井に太い梁、客間には囲炉裏があり、庭には四季折々の花が咲きます。裏の山ではさまざな山菜が採れるので、山ウドの料理などでお客様をおもてなしすることもあるそう。

甘糟りり子著『鎌倉の家』より

 野草の料理で最も大切なのはタイミングだと毋はいう。どの草が食べられるものかを覚えているだけではダメ。摘む時期が重要なのだ。一番柔らかくておいしいのはいつかを知っておく。
 それを身につけるには、日々庭や道端を観察すること。お客様の日にちが決まったら、一週間ぐらい前から買い物やジョギングの行き帰りに、どの草がどの程度育っているかを把握しておくのである。〈中略〉
春の野草を楽しむために、花を活けることを習慣にしなさいというのも毋からの教えである。庭や道端で花を採ろうと思うと、もっと見るようになるから。  
 友達が帰るとき、「りり子のおままごとにつきあってくださって、ありがとう」と毋がいう。いつになったらおままごとを卒業できるだろうか。
 


毋に学んだ自然の花たち、そして器

花器は清水焼の作家のもの。庭に今年から突然咲いた可愛らしい花を主役に、白いヤマジノホトトギスを添えて。
元は本棚だったものをめし茶碗用の棚に。めし茶碗ばかり100個。高価な骨董品ではなく、多くは印判の皿と呼ばれる量産の安価な物。

甘糟家には、四季折々の花が家じゅうに飾られています。それは買ってきた花ではなく、鎌倉の豊かな地に自然に咲く花たちです。

お正月は香りのよい蠟梅か白梅に松の枝を切って添える。2月は啓翁桜。春はキブシ、レンギョウ、ユキヤナギ、そして裏庭には咲き誇るシャガ。5月はツツジ、牡丹、山芍薬、紫陽花は花期が長く、秋まで残って錆紫陽花になるのも風情があるといいます。

また家にはお母様が集めたたくさんの器が並んでいます。居間には100個のめし茶碗の棚、食堂には漆器の棚、そして伊万里の食器や酒器の棚ーー。

甘糟りり子著『鎌倉の家』より

 友達の中には骨董のコレクションのように思う人もいるが、毋はいつもいう。「家には骨董品や美術品と呼ばれるものは、ひとつもないのよ。お料理をこれに盛りたいという器だけ。ひとつずつ買っているうちに、数が多くなってしまったの」
 結婚当初、父と毋は家具も食器もほとんど持っていなかったそうだ。遊びにいらした友人の向田邦子さんがあきれて、湯呑み用の蕎麦猪口や鉢をくださったという。これがきっかけで、外食ばかりだった毋は具体的な暮らしのイメージがわいたそうだ。


父はマガジンハウスで「アンアン」「クロワッサン」などの編集長を務めた出版人。毋はエッセイスト。鎌倉の森の中の大きな日本家屋に育ち、鎌倉の自然の花や食に育まれた甘糟さん。そんな甘糟さんも、若い頃は鎌倉を離れ、麻布狸穴町のアパートメントに住んで、刻一刻と変わる東京の流行のシーンのど真ん中に身を置きます。

人気コラムニストとして多いときは月30本の締め切りを抱えていましたが、時が経ち、エッセイやコラムから長編小説メインへとシフト。そんな最中に、また鎌倉へ戻ろうと思ったのはなぜでしょうか。

「鎌倉の実家にいる時はよく海岸線沿いをジョギングしていたのですが、海を見ているうちに戻りたくなっちゃって。新しいことを追いかけるのも楽しいけれど、同じことを繰り返すこともけっこうワクワクするなあと実感するようになった時期です。都心に住んでいる理由がなくなってしまったから、でしょうか」

 
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