某官庁トップともあろう人がセクハラで辞任するなど、日本におけるこの問題はかなり根深いようですが、筆者はセクハラについて単発の問題とは認識していません。日本社会がIT化やグローバル化になかなか対応できないという話と密接に関係しており、日本人のコミュニケーションのあり方そのものが問われているテーマだと考えます。

セクハラ発言を行っている人の多くは、意図的に相手に嫌がらせしようとあえてセクハラ発言をしているわけではありません。セクハラに限らず相手に対して無神経な発言をする人はほぼ同様なのですが、彼等は彼等なりにモラルを持っています。

それは「自分がされて嫌なことを相手に対してしてはいけない」というものです。

この価値観は一見すると正しいように思えますが、状況によってはまったく正反対の結果をもたらします。「自分がされて嫌でなければ、相手にその行為を行ってもよい」という一方的な解釈が成立するからです。

セクハラ発言を繰り返した官庁トップは、相手がどう感じるのかということはまったく意に介さない人物であると推察されます。自身は組織内で出世していますし、日本は基本的に男社会ですから、自分がセクハラの被害に遭うことなど想像もできません。したがって、自らの言動が異性に対して不快感を与えるということに思いが至らないわけです。
もっとも、そうした言動の矛先は、大抵の場合、社会的立場が弱い人に向けられますから、いくら自身では悪くないと思っていても、卑劣であることに変わりはなく、何の言い訳も許されるものではないでしょう。

しかしながら、先ほどの「自分がされて嫌なことを相手にしていはいけない=自分がよいと思うならやってもよい」という価値観は、必ずしもセクハラ加害者だけのものとは限りません。実は私たちも、知らず知らずにうちにこうした感覚を他人に押しつけている可能性があります。
「これおいしいから食べて」「もっと飲もうよ」などなど。何気ない一言が、場合によっては相手に対して大きなプレッシャーになっているかもしれません。

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もちろん、こうしたことばかり考えていては、雑談もできず息苦しくなってしまいますが、知らず知らずのうちに同じ価値観を強要しているかもしれないというのは、常に意識しておいた方がよさそうです。

筆者の肩書きは経済評論家であり、コミュニケーション論が専門ではありませんが、この問題を取り上げたのは、こうしたコミュニケーションの基礎的な価値観の違いが、経済活動のグローバル化やIT化の進展に深刻な影響を与える可能性があるからです。

例えば中国では「絆(きずな)」という言葉は「しがらみ」や「足をすくう」というニュアンスがあり、あまり好まれないと言われますが、現地に進出した日本企業の社員がこの言葉を多用するので、現地採用の中国人社員が辟易するケースがあるそうです。

こうした話を話を聞くと、多くの日本人は「絆という言葉は使ってはいけない」といった具合に、受験勉強をするがごとく、言葉一つひとつについて、丸暗記で対応しようとします。そうなってくると、すべての単語のニュアンスについて勉強する必要が出てきますから、まったく現実的ではありません。

本当の意味でグローバル化を実現するためには、外国語や外国文化を丸暗記で覚えるのではなく、コミュニケーションのあり方を変えるべきなのです。つまり「絆」のように情緒や暗示で処理する言葉はできるだけ使わず、シンプルに要件が伝わる汎用的な言葉の利用を心がけるのです。実際、グローバル企業として成功できているところには、こうした企業文化が浸透しています。

先ほどの価値観は「自分がされて嫌なことはしない」ではなく「相手が嫌と感じることはやらない」「多くの人が不快に思わない言動に徹する」という形に言い換えた方がよいでしょう。相手に不快感を与えないためには、まずは目的をはっきりさせ、余分な情緒を挟まないことが肝要です。

これは国内の職場でも同じことが言えます。会社には仕事で来ているわけですから、まずは指示や報告をシンプルに行うことがコミュニケーションの基本といってよいでしょう。生産性を上げるためには、テキパキと仕事をする必要がありますから、延々とムダな会話をしているヒマもないはずです。

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こうした合理的なコミュニケーションが徹底されていれば、必然的にセクハラが行われるような話題にシフトすることも少なくなり、一連の問題もかなり改善されると考えられます。

合理的なコミュニケーションのあり方については「ドライで味気ない」と感じる人もいるかもしれません。

しかし、朝、会社で会ってもロクに挨拶もしないのに、突然、プライベートに踏み込んだ会話が行われるような職場と、皆、にこやかに挨拶はするものの、基本的に仕事が優先で、個人間に一定の距離がある職場とどちらが健全かといえば、やはり後者です。

本当の意味でのグローバル化というのは、英語を話すことでも、外国人と仕事をすることでもなく、異なる価値観の人とも問題なくコミュニケーションを取り、あうんの呼吸に頼らなくても仕事をスムーズに進められる体制を構築することです。某官庁トップの言動について、わたしたちは「他山の石」とした方がよいでしょう。

(この記事は2018年11月3日時点の情報です)