だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。教職員も含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが問われている。
実際、日本でも、表面上とはいえ、かつての大教室での一方的な授業は一掃されつつある。形だけでも質問票を配ったり、グループディスカッションの時間をとったりして、授業をアクティブ化する試みを各教員が行っている。そのようなことが教員の評価に直結する時代になってきたからだ。
文科省は、大学におけるすべての授業をアクティブラーニング化するように求めており、そのような努力を大学評価の大きな軸としている。
だが、ここに一つ、大きな問題がある。
例えば日本で最も改革の進んでいる国立大学の一つである東京工業大学を例に考えてみる。
東工大は特に大学一年生のいわゆる「初年次教育」に力を入れており、入学直後の4月から6月に「立志プロジェクト」という授業を展開している。私も毎年呼ばれるのだが、まず、各分野の専門家から90分の特別講義を受ける。それをクラスに持ち帰って4、5人のグループでディスカッションを行い発表もする。一方で、20人前後で1クラスのユニットが形成されており、そこでは毎週のように読書会などが開かれている。
さて、このようにアクティブ化が最も進んだ東工大だが、独自の悩みも抱えている。それを担当教員は「東工大の8・7・ 6問題」と呼んでいた。8・7・6とは、学生の、
・8割以上が男子
・7割以上が関東圏の出身(東工大は大学の質が高い割に関西での知名度が低い)
・6割が中高一貫校出身
という現状を指している。こんな偏った構成では、授業をアクティブ化しディスカッションを導入しても、結局、同じような意見ばかりが出てしまうのだ。
文科省が掲げる新しい学力観の中の「主体性・多様性・協働性」における多様性とは、個々の生徒・学生の側だけの問題ではない。大学側にも多様性の確保が急務となっているのだ。
大学入試制度改革、とりわけ、これまで示してきたようなユニークな問題を持ち出すと「それで公平性が確保できるのか?」「どうやってきちんと評価するのか?」という問いかけが必ず出てくる。
しかし、もはや大学は、従来型の「公平性」は求めていないのだ。
「これまでの学力試験は努力した人間が報われる最も公平な制度だ」と公言する人も未だにいらっしゃる。しかし、努力は人間の能力の一つの側面に過ぎない。もちろん、こつこつと努力を積み重ねるタイプの人間も世の中にいてもらわなくては困る。しかし、努力は苦手だがアイデアは素晴らしい人間も必要だし、その中庸をとる能力も大事だ。
一つの尺度で一つの能力を測る試験から、多様な尺度で多様な能力を見る試験へ、さらには共同体の構成員を決めていく選抜へ、大学入試改革の本質はそこにある。
(つづく)
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