短期集中連載が始まっているドミニック・ローホーさんの新著『バック・トゥ・レトロ 私が選んだもので私は充分』の中に、デザイナー山本耀司さんの著書からの引用がありました。

人間が生きて歳をとるように、布地も生きて年をとる。布地は、1、2年寝かせて、自然収縮してからのほうが魅力的になる。四季を何度か越える。その間も糸はずっと生き続け、歳をとる。その過程を経てのち、ようやくその布地のもっている本来の魅力が現れてくるのである。〜『MY DEAR BOMB』より〜

この文章を読んだ時、私は昨年から今年の初めに訪れた米沢の織物工場の記憶が甦りました。この工場見学をするまで、(そんなはずはないことは考えれば分かるはずなのに!)材料を入れたらパスタマシーンのように生地がシュルッと出てくるようなイメージで漠然と生地を見ていた自分に気が付きました……生地は織られてできていると頭の中では分かっていたはずなのに、あまりにぼんやりとした、いい加減なイメージで生地に接していたことに、愕然としてしまったのです。中島みゆきさんが唄う『糸』ではないですが、縦の糸と横の糸が織りなされ、一枚の布は生まれ、そして一着の服になるのだ(もっと言うなら、その糸だって繊維がよられて作られている!)と身にしみて体感しました。少し乱暴な例えですが、切り身しか見たことのない子供たちが一尾の魚全体を想像することができないことと同じようなことだったのかもしれないなぁ、と。

米沢織は、複雑で繊細な織りを実現するために、織りのスピードが遅く設定されているのが特徴だとうかがいました。つまり、1時間かけても数cmしか織れない生地が多い。価格には理由があるのです。

そして、思い出したことはもうひとつ。作家 光野桃さんの著作の中でも、とりわけ私が大好きな一冊『自由を着る』の中の一節です。

物とわたしの魂が一瞬触れ合い、火花を散らす。
次の瞬間、物が陥落する。
いや、わたしが陥落して、お金を払い、家に連れて帰ってくる。
それから十年、二十年の歳月を経て、
いつしか恋は、愛に変わる。
肌になじんだ穏やかな愛に。
「おしゃれ」の神髄は、この変容の道程にある。
〜「おしゃれは、恋に落ちること」より〜

気が遠くなるような行程を経てきたはずの一着の服が目の前に現れます。

この糸は、この生地は、自分にとって心地よく上手にエイジングしてくれるのか?

今自分の中に沸き上がるこの激しい恋愛感情は、いつか自分の肌や心になじむ穏やかな愛情として熟成されていくのか?  


「身の回りのものや、自分が食べるものにちょっと興味を持つと、そのストーリーが見えてきます。これからは、自分が納得できるものを手にすることが大切なのかもしれません」と神田さんが連載で書かれていたように、私も生地を織りなす糸一本一本にまで思いを馳せ、買い物をする自分でありたいな、と思っています。

今日のお品書き
雑誌の編集者からwebマガジンの編集者となって、劇的に変わったことのひとつに「セミナーへの登壇依頼」がくるようになったことがあるかもしれません。ミモレの頭脳、システム担当バタやんも多分に漏れず、お声がかかり登壇。とっちらからずに、理路整然と話をすることができるところ、こっそり尊敬しています(笑)。