デイリーの報道番組を務めながら、両親の介護をされてきた渡辺真理さん。前回のインタビューでは具体的な介護体験、第三者の手を借りることの必要性等をお話しいただきました。現在も母親の介護を続けられている日々。これからの自身の人生の歩き方、そして両親の介護を通して感じた“老い”というものへの向き合い方についてもお話を伺いましたので、是非一読ください。

渡辺真理 1967年生まれ。神奈川県出身。横浜雙葉学園、国際基督教大学卒業。1990年にアナウンサーとしてTBSに入社。『モーニングEye』『筑紫哲也のNews23』などを担当する。1998年にフリーに転身、2004年まで『ニュースステーション』(テレビ朝日)に出演。その後は『たけしの本当は怖い家庭の医学』(朝日放送)、『熱血!平成教育学院』(フジテレビ)などに出演、現在は「そこまで言って委員会NP」(読売テレビ)、「知られざるガリバー」(テレビ東京)などに出演中。



仕事を犠牲にしたという気持ちはまったくない


1998年にTBSを退局、「ニュースステーション」に就いた半年後に、父親の介護生活がスタートした渡辺真理さん。それでも2014年にお父様が亡くなられるまで、忙しい仕事を続けることができました。

 

「詳らかにするほどの暮らしぶりでもないので自分から話そうとは思わないのですが、尋ねられたときには隠すことでもないのでお答えすると、『ご両親の介護を20年ですか』と、なんて言えばいいのか……褒めていただいたり、同情していただいたりすることもあって。褒められると嬉しいから、ありがたく言葉通りに頂戴しているのですが(笑)。でも、実感としては自分自身の仕事や生活を犠牲にしている感覚は全くないんです。私たち夫婦には子どもがいませんが、子育ても一筋縄ではいかないでしょうし、結婚生活だって、ひとり暮らしだって、そもそも大変じゃない生活ってあんまりないですよね、生きている限り。人生の晩秋、療養の季節に入った親と、私は実家で暮らす生活を選択していますが、同居することが正解とは言い切れませんし、そのご家庭ごとに事情は全く変わってくると思います。だから、あくまで1サンプルとして、どこかでどなたかのお役に立てることがあったら嬉しい…というスタンスでしかお話できないことはわかっていただけたら、ありがたく思っています。
もともとリウマチを患っていた母は骨粗しょう症が進み、今は生前の父と同じ要介護5なので24時間ヘルパーさんに付き添ってもらっています。10年前、私が結婚した当初は夫が都内に借りていたマンションで暮らしながら、夫を仕事に送った後、横浜の実家に戻って両親を看てから自分の仕事に向かうという生活だったのですが、『大丈夫、大丈夫』なんて涼しい顔をしたがる私の性格を夫は見抜いていたのでしょうね。そのとき、夫の両親は神戸で元気に暮らしてくれていたので、私の実家を二世帯住宅に改築して私の両親と一緒に住もうと言ってくれたのが、結婚して3年目でした。母も娘の言うことは聞かないけれど、大好きな娘婿の言うことは聞いてくれて(笑)。夫が同居を決断してくれたおかげで、その3年後に父が他界した時も看取ることができました」

現在は、母親の介護に支障のない範囲で仕事を続けている日々と言います。

「仕事との折り合いは簡単とは言えないですが、家族にとっても自分自身にとっても後悔の残らないよう、仕事先にはできるだけご迷惑がかからないよう、調整は怠らないようにしています。極力、泊まりの仕事は入れないとか、遅くならない時間に帰宅するとか、母のためだけではなくて私の両親との暮らしに踏み切ってくれた夫のためにも、母に付き添ってくださる介護職の方々という家族のためにも、暮らしは守りたいと願っています。そのために今はお断りせざるを得ない仕事もあって申し訳なく感じますが、もしもお互い一緒に仕事したいという気持ちが強ければ、いつか双方に無理でない機会が巡ってくるのではないかと信じてもいて……、楽観的すぎるかもしれませんけど。ただ、1日24時間という持ち時間は誰しも平等ですから、何かを選択するということは何かを選択しないということでもありますよね。そういう意味でいえば、人生という長い縮尺のなかで、ざっくりした今というこの季節は、母と家族との時間を選択している自分に満足しています」

 

臨機応変に対応できる、ゆるっとした心構えでいたい


「フリーになってからはもちろん仕事の全責任は自分にありますし、局のアナウンサーだった8年もいろいろ周囲にはご迷惑をかけながら働いてきたことを思うと、今、生活を優先してお断りする仕事がある以上、ご依頼を受けた仕事に対しては期待以上のものを納品できるよう取り組むのみ!という思いも強いです。満足していただける以上の納品はなかなか難しく、やり甲斐だらけですけれど、86歳の母だって“生きる”ということを毎日がんばってくれているわけですから。」

そう語る渡辺さん。今後は「このようなペースで生活していきたい」等、何か展望は持っているのでしょうか?

 

「展望は……持っていないんですよね(笑)。本当に大雑把な人間で、計画を立てるのが苦手なんです。一年の計を立てるお正月にも、2年前に『今年こそはスマホを持つぞ』と決めて実行したのが初めてくらい。あまりに周りに立ち遅れてたので(笑)。展望って難しいですよね。家族の形だって時の流れの中で移り変わっていくもの。父が倒れたときも、父の他界後に母が本当は父のあとを追いたいくらい消耗していて転んでしまったことも、私自身の結婚でさえ、そのときになってみないとわからないことだらけで。もちろん、想像したり準備したりすることは有効で必要だと思うのですが、同じくらい、いざ事が起こったときに臨機応変に対応できるよう、ゆるっとした余裕のある心構えでいることも大切かな、と感じています」

「だから介護も何とかなる。介護=辛いというイメージを持ちすぎないでほしい」とも語ります。

「“介護”と一括りに言うことが、あまり好きではなくて。とにかく大変とか悲惨といったイメージが先行し過ぎる印象を受けるので。もちろん、高齢者を看ることを“介護”と名づけることで、同じ経験をしているたくさんの方々が共感し、つながり合えるという意味では“介護”という熟語が重要だったと思います。その状態を表す言葉がないときって、個々が不安なままにバラバラの努力を重ねる以外にないので、“介護”とひと言で表すことで行政の対応や福祉用具の進歩が一気に促された面は大きいと感じています。ただ、医療が進歩して、健康寿命以上に平均寿命が長くなってきた現代では“介護”という言葉を聞かない日はないほどになりました。そして、一度できた言葉には、その言葉が多用されるほどにイメージは定着しやすく、介護=辛そう、という先入観が強くなっているように感じます。でも、実際に身体の効かなくなってきた親と暮らしていると、辛いとか、悲しいといった形容詞とは少し違うんです。私が10代20代のときは、まだ若くて元気だった親に反抗もしたし喧嘩もしましたけど、今は体の枯れてきた親が、機嫌よくニコっと笑ってくれても、その日はちょっと嬉しい。絶好調のときは『もっと、あなたのご主人のことをちゃんとなさいね』と諭されてハッとしたり。ヘルパーさんと母の世話をしていたら『痛い!』と言うので、慌てて『どこが痛いの!?』と聞いたら、『きっと痛くなる!』と。『え?予言!?』とヘルパーさんと一緒に思わず笑っちゃったりすることも。人間の気分や機嫌は確実に身体の栄養や水分と連動するということも、歳を重ねることは言葉や表現や思考をだんだんと手放していく過程なのだということも、でもそれは生物にとって自然で、ただただ恐れなくてもいいということも、間近で見せてくれて……、親はどこまでも親なのだと感じます」

そして渡辺さんは、「親を通さなければ出会わなかった介護職の方々の仕事への向き合いや、親への接し方にも、学ぶものがたくさんあります」とも語っています。

 

「ひとつ屋根の下に住むヘルパーさんたちは私にとって今や家族同然の存在、もちろんお互いいいことばかりの毎日じゃなく、身体をいたわり合いながら、時には愚痴もこぼし合いながら、親を通してゆるくつながり合えるこの共同生活は、これからの自分の人生をきっとどこかで助けてくれる気がしています。大雑把な言い方ですけれど、生きていくってベースとして大変ですよね。食べなきゃいけないし、そのための収入がないといけないし、働くには人と関わってやっていかないといけないし、税金も払わないといけない。そして歳を重ねて身体が効かなくなるのは大変なことだらけですが、多分、大変だからこそ、じわっとした人とのつながりの温かみや、クスッと笑えるような瞬間を実感できるのじゃないかなぁ。生きること、老いていくことを実地で見せてくれる親との時間は、自分の体幹を鍛える学びのような気がしています」

写真/塩谷哲平
取材・文/山本奈緒子
構成/柳田啓輔

 

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