「夏の扉」の前奏だけでイってしまいそう……

 

 歌謡曲も、忘れてはなりません。私の場合は、たまに聖子ちゃん(もちろん松田)のコンサートに行って、思う存分に懐かしむことにしているのです。
 聖子ちゃんは私が中高生の頃にアイドルとして活躍していました。当時は特に聖子ちゃんが好きだったわけではなく、どちらかといえば明菜派だった私。しかし聖子ちゃんのヒット曲の数々は思いの外、中高生時代の私の日々の奥深くまで浸透していたようです。「夏の扉」の前奏が流れてくればいつも、脳天がパカッと開いたかのような感覚に包まれる。そして一緒に歌う!

 聖子ちゃんが素晴らしいのは、「ファンは、懐かしむためにコンサートに来ている」ということを熟知しているところです。過去にヒット曲を持つベテラン歌手でも、「今の私を知ってほしい」と、新しい歌、すなわち誰も知らない歌を延々と歌い続ける人がいますが、聖子ちゃんの場合はその手の出し惜しみはしません。コンサート後半では、これでもかとばかりにヒット曲からヒット曲へと歌いまくり、ファン達を絶頂へと導いてくれるのです。

 音楽等によって刺激される「懐かしい」という感覚は、「その曲がヒットしていた頃の自分」が喚起されるからであるわけですが、その時の「自分」が未完成であればあるほど、懐かしさは強まるようです。青い恋をしていたり、何かに懸命に打ち込んでたりという思い出の背景にその曲があったからこそ、数十年後の「懐かしい」という気持ちは、快感に変わる。

 聖子ちゃんの「夏の扉」を今の若者が聴いても、「良い曲だな」と思うことでしょう。が、そこには脳天がパカッと開くような快感は、伴わないのだと思う。我々は、「夏の扉」がヒットした時の未熟な自分や浮かれていた時代の空気ごと聴いているから、前奏でイッちゃいそうになるのであって、ヒットした当時に聴いていない人とは、聴き方が異なるのです。

 ですから世代によって、「イッちゃいそうになる曲」は、違います。「小室サウンドを聴くと青春が蘇る」とか「宇多田ヒカルの『Automatic』を聞くと滂沱の涙」という人もいましょう。このように世代によって懐かしのポイントは異なれど、懐かしむメカニズムは、同じなのではないか。
 

懐かしむレジャーを楽しむコツ


 中年以降の人々にとって「懐かしむ」という行為は、レジャーの一つです。我々世代ですと、往年のディスコサウンドで踊りまくるという、リバイバルディスコの集いも、しばしば行われています。チェンジの「パラダイス」で決まったステップを踏み、ドゥービー・ブラザーズ「ロング・トレイン・ランニン」でお決まりの掛け声をかければ、やはり得体の知れぬ快感に包まれる……。

 この「懐かしむ」というレジャーをより楽しむには、ちょっとしたコツが必要です。それはすなわち、「同世代だけで没入する」というもの。リバイバルディスコを楽しむ時、一人でも若い世代が混じっていて、
「えー、皆で同じステップとかって、盆踊りみたーい」
 などとしらーっと言われたら、ディスコ世代のテンションは水をかけられたようになります。密造酒を楽しむかのように、閉じられた場所で閉じられたメンバーだけで行うべきなのが、懐かしむという自慰行為。聖子ちゃんなどの懐メロコンサートにしても、「客は同世代ばかり」という安心感があるからこそ、中高年達は聖子ちゃんと共に歌い、時には聖子ちゃんコスプレまですることができるのです。

 しかし映画「ボヘミアン・ラプソディ」においては、その原則が破られていました。中高年が「懐かしい」と映画を観るその隣で、中高生が「こんなバンドがあったのか。恰好いい!」と、興奮していたのです。映画の中のクイーンは老化していないからこそ、老若男女が共にクイーンを楽しむことができたのかもしれません。

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「懐かしみたい欲求」は音楽だけに限ったことではありません。後編では、ネット社会の到来が「懐かしむ」というレジャーにもたらした影響についてを分析します。

 
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