「子どもはちょっとしたことでも転んでしまうものです。急性硬膜下血腫や水腫が、そうした軽微な外傷でも起こりうることは、外傷患者を数多く診療してきた脳外科医としては、常識と言えます。もちろん、虐待はけっして許されるものではありません。自分では何も訴えることのできない子どもたちを守るのは、大人の責務です。しかし、現在の、『3徴候=虐待』という構図は、あまりにも学問的ではありません」
 そう指摘するのは、脳神経外科医の山本直人医師(元JA愛知厚生連・海南病院院長)です。山本医師は2012年頃からSBSを疑われたという数件の事案に弁護側の証人として関わり、虐待を疑われた保護者たちの過酷な現状と裁判における非科学的な立証の現状を知って驚いたそうです。


SBSを虐待と結びつける「マニュアル」


じつは、日本の病院に頭部をけがした赤ちゃんが運び込まれた際、「乳幼児揺さぶられ症候群」を診断するマニュアルがあります。厚生労働省の助成金によって作成された『子ども虐待対応・医学診断ガイド』というもので、ここに掲載されている「SBS/AHTの医学的診断アルゴリズム」(アルゴリズム=問題を解く手順の意味)が指針となっているのです。

ちなみに、AHTとは「Abusive Head Trauma」の略で、「虐待による頭部外傷」と呼ばれる傷病名です。SBSはその名が示す通り、赤ちゃんのけがの原因が「揺さぶり」に限定されますが、AHTという名称であれば、頭部に受けた直接的な衝撃や暴行も含まれるため、けがの原因についてさまざまな解釈を用いることができるのです。

しかし、そのマニュアルこそが、子どもの保護者がいくら家庭内の事故だと訴えても、医療機関や児童相談所、捜査機関が虐待を疑う“根拠”となっているのです。診断基準にあたる部分を抜き出してみましょう。

〈三主徴(硬膜下血腫・網膜出血・脳浮腫)が揃っていて、3m 以上の高位落下事故や交通事故の証拠がなければ、自白がなくてもSBS/AHTである可能性が極めて高い。〉

つまり、「3メートルの高さから落ちるか、交通事故のような大きな衝撃が加わらない限り、赤ちゃんの頭の中に出血するようなことはあり得ない」と限定していることになります。
これでは、保護者たちがいくら「つかまり立ちからの転倒事故だ」と説明したところで、「そんな低い位置から転んだり、落ちたりしても、硬膜下血腫のような重傷を負うわけはない」と一蹴され、逆に、「暴力的に揺さぶって虐待したのに、保護者が嘘をついている」ということにされてしまうはずです。

しかし、冷静に考えてください。
「3メートルの高さから落ちるか、交通事故のような大きな衝撃が加わらない限り、赤ちゃんの頭の中に出血が起こることはない」という基準そのものが、おかしいと思いませんか? 家庭内で高所作業をしている大人が脚立から落ちたとしても、打ち所が悪ければとんでもないけがをします。命に関わることもあるでしょう。脚立から床までの高さは、もちろん3メートルもありません。赤ちゃんが3メートルの高さから落ちたら、それこそ死に至る大けがをするのではないでしょうか。

 

これまで、「私は虐待していない」という保護者たちの声をすくいあげた記事を執筆してきた経験からしますと、「子どもがけがをしているのは事実じゃないか」「虐待した親が、『虐待しました』と正直に言うわけがない」と批判的なコメントが寄せられることも承知しています。東京都目黒区で亡くなった船戸結愛ちゃんの事件をはじめ、保護者による児童虐待事件が立て続いていることから、「虐待」の二文字に世論が敏感になっていることも理解しています。

しかし、大前提として、「虐待を減らすこと」と「冤罪を減らすこと」は対立する概念ではありません。そして、この記事で紹介した工藤玲子さんと同じように、家庭内の事故を虐待と疑われていた保護者からの無実を訴える声が、全国から上がっているのです。
こうした声また声を取材し、小児科医だけではなく脳の専門家である脳神経外科医にも取材を重ねた私は、「揺さぶられっ子症候群」の定義をこのまま放置することは、次々と冤罪を量産することと同義だと確信しています。さらに、日本の子育てを不自由で、理不尽なものにすることと同義でもあります。

SBSの診断によって、児童相談所や捜査機関が大量の分離された親子を生み出しています。家族がふたたび平穏を取り戻すことができるかどうか、それははなはだ疑問です。相当な努力が強いられるでしょう。今こそ、SBSの定義、診断基準を見直す時期が訪れているのではないでしょうか。

柳原三佳(やなぎはら・みか)

1963年、京都市生まれ。ノンフィクション作家。交通事故、死因究明、司法問題等をテーマに執筆。主な作品に、『家族のもとへ、あなたを帰す 東日本大震災犠牲者約1万9000名、歯科医師たちの身元究明』(WAVE出版)、『自動車保険の落とし穴』(朝日新聞出版)、『遺品 あなたを失った代わりに』(晶文社)などが、また、児童向けノンフィクション作品に、『柴犬マイちゃんへの手紙』『泥だらけのカルテ』(ともに講談社)がある。なお、『示談交渉人 裏ファイル』(共著、KADOKAWA)はTBS系でドラマシリーズ化、『巻子の言霊  愛と命を紡いだ、ある夫婦の物語』(講談社)はNHKでドラマ化された。近著は、初の歴史大河小説『開成をつくった男、佐野鼎』(講談社)。自身が医療過誤被害に遭った経験から厚生労働省の「医療事故調査制度の施行に係る検討会」委員を務めたほか、「NPO法人地域医療を育てる会」にも参加。 https://www.mika-y.com/

 

『私は虐待していない 検証 揺さぶられっ子症候群』
柳原三佳 著 1200円(税別) 講談社


この本で紹介するケースは、けっして他人事ではありません。「赤ちゃんを強く揺さぶってけがをさせた」として逮捕された親たち。しかし、つかまり立ちからの転倒などが原因であっても「虐待」だとして断罪されていました。最愛の我が子が脳に障害を負うという苦しみのなか、虐待を疑われた親たちの過酷な体験を描きつつ、小児科医、脳神経外科医といった医療関係者、法曹界の専門家の視点を交え、「揺さぶられっ子症候群」という症例の問題点を究明します。

図作成/アトリエ・プラン

 

・第2回「脳のケガ=すべて虐待?日本の法律は親と子を引き離すようにできている」は4月11日公開予定です。

 
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