かつて私が、テレビドラマの脚本家を目指していた頃のこと。駆け出しの私はドラマの企画書を作っては、小さい制作会社の社長とかプロデューサーに読んでもらい、ああ、また採用されなかったああ、とトボトボ家路につく、みたいな日々を送っていました。

 

それはたぶん30歳になるかならないかの頃でしょうか。知人に紹介してもらった小さな制作会社に企画書を持ち込んだ私は、会議室でそこの社長にドラマのプロット(あらすじ)を読んでもらっていました。内容は、不妊の母親が赤ちゃんを誘拐して育て、育った子供がまた誘拐されてしまうことで過去が発覚……みたいな話です。社長はあれこれ難癖付けてきた末に、「不妊」という部分に食いつき、ニヤニヤしつつこう言いました。
「君さ、どうやったら子供ができる確率が上がるか教えてあげようか?セックスの時に、こうやってさ……」
そこから延々と始まった粘膜的な話に、私はぼんやりと、はあ、はあ、相槌ともいえぬ相槌を打ちながら、その話を遠くのほうで聞いているような、幽体離脱したみたいな感じになりました。基本的にこうした状況に比較的メゲないタイプの私ですが、それでも初対面の小汚いオッサンに突然そう出てこられたことに少なからず、なんというか、面食らったのは事実です。私がしている純粋な仕事の話とおっさんの粘膜話との距離があまりに遠すぎ唐突すぎでつながりがよくわからず、何がしたいのか把握ができず、ポカーンとしてしまったわけです。

しばらくして何となく戻ってきた思考で、「ああこのオッサンは、最初から企画を吟味する気なんてさらさらないんだな、“付き合ってやった時間の分だけ辱めて楽しんどくか”ってことなんだな」とようやく理解しました。小柄で色白な私は、その当時でも時に高校生に間違われるくらいの子供っぽさ頼りなさでしたし、寄る辺ないフリーランスの新人ライターで、仕事も欲しがってる。つまり、どんなにバカにしても小突き回しても、もしかしたら乱暴しても、反撃してくるはずがないし、たとえ反撃してきたとしても怖くもなんともない。しかも自分に対して、「仕事がもらえるかもらえないか、生きるも死ぬもこの人次第」と藁をもすがる気持ちになっている。オッサンからしたら圧倒的に無力で、さぞやちょうどいい「獲物」に見えたに違いありません。


この4月から姪っ子が就職したこともあり、ずーっと気になっていたのが「就活セクハラ」のニュースです。就活ルールの解禁で、今年からさらに“獣道化”する就職活動で、国や大企業がいまいち大きな問題としてとらえていないのは、本当に困ったことです。だってこれ、普通の大学生が普通の企業に入るための普通の就職活動で、伊藤詩織さんのパターンに陥っているってことなんですから。

写真:Shutter Stock

私が今テレビ業界で生きていない一番の理由は、当然ながら私に才能がなかったから。でも、それでも「絶対にテレビ業界で生き残る!」という気持ちあれば、何かしら続けていたかもしれません。今も変わらずテレビ業界はあらゆる意味でタフな世界で、そこで生き残っている女性は本当にすごい。でも私は――例えば制作会社のオッサンにされたような、仕事とは全然関係ない――「タフさ」を身に着けなければいけないことにこそ、違和感を覚えました。てか「一人前の仕事するのは、まずはオッサンと一緒に粘膜話を楽しめるようになってから」ってことかよ、と。まずは「男」になってから、ってことなら無理なんで。

まあ私は特に自分の「違和感」を見逃せない、順応下手なタイプで、それで損をすることも多いのですが、誰だってひどい違和感を抱え続けて45年も働き続けたら心身ともに病んじゃうんじゃないかしら。そこから離れるか、そこを変えてゆくしかありません。どちらにしろ、若い世代には「そういうもの」という会社や世の中のルールより、自分の「違和感」を大事にしてほしい。そして大人としては、「そういうもの」と収めるのだけはするまいと思っているのです。