酒井順子さんによる書き下ろし連載。我々がドキドキしなくなったのは、精神的な問題ではなく、物理的な機能低下ではないか、と危機感をもった酒井さん。感情の活性化を図るため行ってみたこととは……。

写真:shutterstock


アイドルにドキドキする資質がない人は


50代であっても、盛んに胸をドキドキさせている人も、一部には存在します。それは、韓流やジャニーズといったアイドルのファン達。

アイドルファンをしている友人達の話を聞くと、ライブやらファンミーティングやらに参加する時は、ほとんどデートと同じような感覚なのだそう。

「参戦(アイドルファン業界用語で、ライブなどに行くこと)が決まったら、その日に向けてネイルサロンや美容院に行ったり、服も買ったりするわけよ。いざ当日になったら、高校時代のデートの時みたいにドキドキする! ライブの後はしばらく肌も潤っているし、美容効果も高いと思う」
 ということなのです。

アイドルに対してキャーキャー言うことができる資質というのは、生まれた時からその有無が決まっているようで、あいにく私はその資質を持っていません。いくら美容効果が高くても、今さらアイドルファンになることは不可能なのですが、しかし50代でもドキドキしている人が実在するという事実は、私に希望をもたらすのです。

アイドルにドキドキできない私は、先日の卓球の試合において、目標を定めてみました。それはもちろん「勝つ」ことではなく、「緊張する」そして「悔しがる」というもの。試合という非日常の機会を利用して、感情の活性化を図ろうと思ったのです。

緊張するために私は、必要以上に「意識する」ことにしました。試合の日を思い定めて練習をこなし、周囲にも「まもなく試合である」と言いふらす。
「頑張ってね!」
「結果を教えて」
 などと言われると、頑張ろうという気も湧いてきます。

当日の朝は、いつもより早めに目が覚めました。寝るのが大好きな私にとっては椿事であり、「もしや緊張のせい?」と思えば、心なしか胸がドキドキしているような気が。

それは、久しぶりのドキドキ感でした。「懐かしい感覚……」と、そのドキドキを大切にしながら試合会場へと向かったのですが、実際に試合をするまで、準備だの何だのでワサワサしているうちに、ドキドキはいつの間にか 霧散むさんしていたではありませんか。

ああ、何とあえかな50代のドキドキ感。それは線香花火のように繊細で、わずかな時間しかもたないものだったのです。

では二番目の目標である「悔しがる」というのはどうであったかというと、結果的に言えば、やはり負けても往年のような悔しさを感じることはできませんでした。周囲の参加者を見ていると、1点でも多くとりたいと、必死に審判に食い下がったりする人もいるのですが、そのような気力はもはや私に、ない。負けたからといって、雪辱のために必死に練習をする気にも、ならない。……ということで「悔しがる」こともまた、不首尾に終わった。


「鈍くなる感情」と「過敏になる感情」


肉体の衰えが気になる50代は、パーソナルトレーニングだウォーキングだと、筋力を懸命に鍛えるものです。もちろん、外見の衰えに対するケアも、欠かさない。

同時に我々には、感情を強化するトレーニング、すなわち筋トレならぬ感トレも、必要なのかもしれません。かつて鋭敏だった感情の起伏は、様々な経験を積み、場数を踏むことによってすり減り、良い言い方をすれば「円く」なり、別の言い方をすると「鈍く」なっているのですから。

円くなり続け、ほとんどカドの無い平坦な性格になっていくのも、人生50年だった時代は、よかったのかもしれません。が、今は人生が100年続くかもしれない時代。多少の起伏は残しておいたほうが、人生が楽しくなるのではないか。

一方で、人の感情は加齢によってすり減るだけではない気もするのです。年をとることによって、豊かに、もしくは過敏になっていく感情も、あるのではないか。

例えば私の場合、年をとるにつれ、年下の人々のことを「可愛い」と思う気持ちが強くなってきています。特に20歳以上年が離れた人に対しては、親子的な認識となるのか、可愛さが倍増。幼児や赤子に至っては孫感覚を抱くようになって、「この子の未来に幸あれかし」と、神に祈りたいような気持ちになる。

自分が子供の頃、私は自分より小さい子供が苦手でした。
「大きくなったら、幼稚園の先生になりたい」
といった発言をする友人の心理が全く理解できなかったというのに、この変化はこれいかに。

電車の中などで、赤ちゃんが近くにいると盛んにあやし、
「おいくつ?」
などとお母さんに話しかけるおばあさんに対して、昔は「?」と思っていた私。しかし子供を産んでいない私でも、今はその気持ちがわかります。まだ若干の羞恥心があるので、お母さんに話しかけるところまではいかないのですが、近くに赤ちゃんがいると必死にアイコンタクトをとったり、笑いかけたりしている自分がいるではありませんか。

年をとると涙もろくなってくるというのも、事実のようです。昔は、「探偵! ナイトスクープ」(東京地方在住の方に注。東京以外では大人気の、関西で制作されているテレビ番組です)の西田敏行局長が、いつも感動して泣いているのを見て、やはり「?」と思っていましたが、今は自分も局長と同じところで目頭を熱くしたりしています。この番組においてしばしば炙り出されるなにげない人間愛が、実は非常に貴重なものであることを知る年頃になってきたからなのかもしれません。

話を卓球の試合に戻しますと、試合に負けた時、私はうっすらとした悔しさと共に感じることがあって、それは「相手の人が勝つことができてよかった」ということなのでした。特にお相手が、勝つ気満々ではない、ちょっと気弱なタイプの方だったりすると、「きっと嬉しいだろうな」などと寿いでいることがあるのです。

ハタと我にかえれば、「私、そんな人類愛キャラでは全くないのに!」と驚くのですが、まぁそれが加齢ということなのでしょう。いつまでも「勝ちたい!」という気持ちをたぎらせ続けられる人のようには、私は体力、精神力ともに頑健ではありませんでした。

大人たるもの、感情をコントロールすることができねばならぬ、と思って大人になってからの日々を過ごしてきた私ですが、50代は感情の折り返し地点なのかもしれません。若い時分に先鋭的すぎた部分はうまい具合にすり減って、我慢すべきところは我慢も利くようになってきたという、いわゆる分別盛りが、50代。

しかし人生は、多分それでは終わらないのです。このまま感情の穏やか化が進めば、皆が神様のような存在になってゴールを迎えるはずですが、高齢の方々を見ていると、どうやらそうでもない。むしろもう一度感情の先鋭化が進んで、かつて短気だった人がさらに怒りっぽくなっていたり、焼き餅焼きだった人が、輪をかけて嫉妬深くなっていたりするではありませんか。

ということは、私も現時点で無理して感トレなどしなくていいのかも。これからさらに年をとれば、昔のような負けず嫌いとか緊張しいといった性格がまた浮上するのかもしれないのですから。

さらに年をとっても卓球の試合に出続け、キーキーと審判に文句をつけている私がいたならば、「昔がえりしたのだな」ということ。その時はそっと見守っていただければ、ありがたく思います。