三浦瑠麗さんの『孤独の意味も、女であることの味わいも』を読み、しばらく衝撃で頭がぼうっとしていました。
三浦さんとはTV番組「ニッポンのジレンマ」「朝まで生テレビ」などに出演した時に何度かお話をしたことがあり、先輩女性としてあたたかく接してくれる愛の深さのようなものと、世の中への諦念とも受け取れる一種の割り切り、それでも前向きに議論を止めない姿勢に、何か不思議な感覚を覚えました。この本を読んで、その発言や表情、なぜこの人の言うことに説得力があったのか、心惹かれるものがあったのかに納得がいきました。
内容についてはそれぞれに読んでもらうとして、この本を読んで、「三浦さんのこと知らなくても、ぜひ読んでほしい」と、友人に勝手に宣伝してまわっていた私。すると何人かの親しいママ友が、早速お勧めしたその日のうちにKindleで読了してくれました。その中に、自分で起業していて端からはどう見てもスーパーでスペシャルな女性がいるのですが、彼女とこの本について話していた時、「私、のうのうと生きてきたわ」「なんだか自分が薄っぺらく思えてくる」というつぶやきが思わず双方からこぼれました。
この本は多くの女性を救う一方で、このように思わせる効果も間違いなくあると思います。就職活動のときの面談で履歴書をちらっと見た後に言われたこんな質問を思い出しました。
「東京出身で国立高校から東大現役合格? 君さ、挫折とかしたことないでしょ」
学校名だけが人生の成功なのかと、その時は内心反発したものの、確かに、今三浦さんの本と照らしてみれば私の人生に大きな事件はなく、乗り越えた谷も圧倒的に少なかったことは間違いありません。
でも、傷の多さや、生きづらさの深さ、経験の量を比べる必要はない、とすぐに思いなおしました。誰かのほうがより深い意味での当事者である、というふうに「当事者性」の争いをすることには意味がない。そして誰であれどんな経験であれ、当事者が語ることにやはり説得力はあるのだ、とも。
個人攻撃したくないので書名などを伏せますが、ある著名なジャーナリストの方が書いた本に、殺人事件の取材を第三者として取材しても当事者の心のなかにまでなかなか踏み込めず、不謹慎ながら同僚たちと「本気で殺しを取材しようとしたら、被害者の奥さんと結婚して、そこから事件をたどりなおすぐらいのことをやらないといけないかもな」ということを語り合ったことがある…こんなことを真顔で言わないといけなければ当事者としての意識には迫れないというくらい、難しいことだ…というような下りがあります。
少し前に書かれた本で、今はご本人の認識も変わっているかもしれません。ただここには、あくまで自分たち記者が取材して真実を報じることを前提にした、いかに当事者に物理的に近づけるかという発想があり、当事者自ら語るものに価値を置き、それを尊重する姿勢はないように見えます。被害者の奥さんと結婚したら当事者になれるか? なれるわけがない。もちろん実際にやるわけではないものの、むしろ遺族をそのような目で見るのは二次加害的な目線に近いと感じ、憤りすら覚えました。
私も取材をする人間として常にわが身を振り返らないといけないと思いますが、本当の意味での当事者発信は当事者が言葉を発すること、ものを書くことに他ならない。三浦さんの本についても発売される前、国際政治学者がなぜエッセーを? という声をいくつか見ましたが、個人の非常にプライベートなストーリーを語ってくれたことにこそ大きな意味があると感じます。
今回の本はテレビなどに出るコメンテーターの発言の背景を知る、性暴力の被害者イメージを変えるなど、彼女だからこそできたことでもあります。でも、三浦さんが、国際政治学者としてではなく、1人の女性として、前提になる女性の生きづらさ、いくつかの非常に辛い経験、それでも人生が豊かだと思えるまでの思考や経験の軌跡を明らかにしてくれたことは、多くの女性への励ましになったでしょう。
もちろん言いたくない人まで言わないといけない空気を醸してはいけないと思います。でも、どんな経験であれ私たち一人ひとりがストーリーを語ることには意味がある。そんな風に思わせてくれた、とても繊細で、凄味がある、手元に置いておいていつかまた読み直したい本でした。
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