道路交通法は「交通の安全と円滑を図り、道路の交通に起因する障害の防止に資する」ことを目的としています。つまり、1センチでもはみ出していたのか、あるいはライブの事前許可の有無ではなく、具体的に周辺の安全が脅かされているのか、円滑な交通が阻害されているのかという部分がもっとも重要な判断基準となります。

そうであるからこそ警察は、むやみに看板や路上ライブについて摘発することはなく、状況を見て柔軟に対処しているわけです。したがって、1センチはみ出しているからといって「これは違法である」として私刑に及ぶというのは、法律について理解していないと指摘されても仕方のない行為だと筆者は考えます。

 

さらに言えば、私刑に及ぶ人は、公務員の犯罪に抗議して、官庁に直接、実力行使するようなことは決してしません。法律を破っている(可能性がある)にしても、その矛先は、立場が弱く、反撃できない人に向かうことがほとんどです。

制定された法律の条文に書いてあれば絶対的に正しいという考え方は「形式的法治主義」と呼ばれており、現代民主主義にはそぐわないというのが一般的な考え方です。もっとも分かりやすい例をあげれば、ナチスドイツが制定した全権委任法は、民主主義そのものを否定していますから、民主国家の法律としては、そもそも無効となります(理屈上、民主国家においては憲法に違反する法律を制定することはできません)。

日本が途上国だった時代は、社会の仕組みが単純でしたから、こうした条文絶対主義もそれほど大きな弊害になりませんでしたが、今の時代にはそうはいかないでしょう。

過去に制定された条文が絶対という概念にとらわれてしまうと、イノベーションによって新しい技術が登場しても、法律で許可されていないので、一律に「禁止」という判断になりがちです。次々と新しい技術や概念が登場してくる今の時代においては、こうした風潮は確実にイノベーションを阻害してしまいます。

新しい技術やサービスが海外で開発され、日本は後になってそれを輸入するだけというケースがよく見られますが、日本で革新的な技術やサービスが生まれにくい背景には、こうした表層的な「正義感」が影響している可能性があります。外国のサービスを輸入してばかりでは、利益の多くは外国の企業に渡ってしまいますから、日本人にとって良いことは何もありません。

何か新しい技術やサービスが登場し、法律の条文では対処できなくても、各法律がなぜ存在しているのかという基本的な価値観に立ち返れば、どう対処すればよいのか、自ずと結論は得られるはずです。議論によって適切な結論が得られたなら、それに合せて条文を変えればよいだけです。

 

前回記事「日本の少子化問題が解決されそうにない、絶望的な理由」はこちら>>

 
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