自分の中に見る母親の片鱗と「娘」でいたい気持ち


我々側にも、寿命が延びたことによって、ずれてきた感覚があるように思います。つまりゴールが遠い先になったからこそ、自分の中にいつまでも「私は『娘』なのだ」という気分が、残り続けているのではないか。自分が子供を産んで親になっても、どこかに「ずっと親に甘えていたい」という気持ちが、ありはしないか。

男性の場合は、その手の気持ちを持ち続けることが許されているのです。母親はいくつになっても息子を可愛がるし、そうでなくても男性は、自分の妻などに対して、擬似母親感覚を持って接することができる。おっぱいパブで母恋欲求を満たしたり、赤ちゃんプレイで子供還り欲求を満たす人もいるでしょう。

対して女性の場合、男性と比べてうんと早く「おっぱい断ち」をしなくてはなりません。社会で働きつつ家庭も切り盛りしてヘトヘトの女性の中には、「お母さん的な存在に甘えたい」という欲求が渦巻いているのに、いい年をした女性は、家庭でも社会でも「お母さん」。せめて自分の母親には甘えられるかと思えば、母親まで「愛して」「構って」としなだれかかってきて、イラッときてしまう……。

母親のことをこれ以上嫌いになりたくない、と悩む、50代の娘達。彼女達は、母親に対する罪悪感の他にもう一つ、未来に不安を抱えています。それは、「自分も将来、今の母親のようになるのではないか」というもの。自分もまた、娘からウザく、重く思われてしまうのではないか、と。

私に子供はいませんが、その気持ちもまた、わかる気がするのです。年をとればとるほど、娘は母親に似てくるもの。私も、自分の中に母親の片鱗を見てぞっとすることがままあります。思い返せば我が母も、自分の母親、つまり私にとっては祖母が生きている時はブツブツと文句を言っていたのであり、歴史は繰り返すのです。

我々世代は、自分の子供と非常に仲良しなので、子供からウザがられる心配は薄いのでは?という気もします。私達世代が家族をつくる時は、「子より親の方が偉い」といった家庭内の高低差を減らし、フラットな家族関係を形成したのであり、母と娘も、姉妹か友達か、といった感じです。

しかし、だからこそ募る不安も、あるのかもしれません。母と娘は姉妹か友達のようだけれど、本当は姉妹でも友達でもないということに気づいた時、娘達は冷静な目で、母に何を見るのか、と。


母と同じクラスだったら友達になっていただろうか


そういえば私も、親から愛情やら教育を与えられる期間が終わった時に、親の見方が変わりました。母親も自分ももう大人、となった時、「この人、そんなに気が合うタイプではないな」と気づいてしまったことが、母親に初めて「重さ」を感じた瞬間だったのです。

そう、親と子だからといって、性格が同じなわけでもなければ、必ず気が合うわけでもありません。中には、
「うちの母が同級生だったとしても、すっごく仲良くなっていたと思う」
と言う人もいますが、それはレアケース。多くの人は「この人とは、合わない……」という淀んだ気持ちを、母親を看取るまで持ち続けるのではないか。

母親の看取りは、そんな感情から解放される時でもあるのでした。母を亡くした娘達は、泣くだけ泣いた後、一皮剥けた顔をしています。ウザく、重く思い続けたことに対する罪悪感は残れど、その罪悪感によって滲む涙は、どこか甘やか。人生に悩んだ時にふと心に浮かぶ「お母さん」という言葉が天に届くかどうかはわからないけれど、そこには好きなだけ謝罪の意を込めることができるのであり、母亡き後に初めて湧き上がる愛情も、ある気がするのでした。

前回記事「母の「私って可哀想」アピールに押し潰される娘たち【母を嫌いになりたくないのに】」はこちら>>

 
  • 1
  • 2