酒井順子さんによる書き下ろし連載。今回のテーマは「性人生」。“四十しどき”などと言いますが、現代の日本女性たちのそれにまつわる欲望と現実は果たして……。
目当てにされる「身体」とは一体どんなものか
電車の中で若くて派手目な女性2人が、恋バナをしているのが耳に入ってきました。その時、
「それって、身体だけが目当てだったんじゃないのー?」
という一言を聞いて、不覚にも胸がジーンと熱くなった私。
どうやら女子Aには、付き合っているかいないかが微妙な関係の男友達がいる模様。その関係について女子Bが言ったのが、件の台詞でした。それを聞いていた私は、
「身体だけを目当てにされる時代って、そう遠くないうちに終わるのよ!」
と、彼女達に心の中で語りかけていた。「だからその機会を大切に」と言うつもりはありませんが、身体という資源の魅力が有限である事に、彼女達はきっとまだ気づいていまい。
私もかつては、身体だけを目当てにされた時代がありました。……というのはもちろん嘘で(ちょっと書いてみたかった)、若い時分から、「身体だけが目当て」という人が近寄ってきた覚えはありません。ですからそれだけを目当てにされてすぐ捨てられる、という「身体」を持つ人を見ると、「すごい」と、一種の憧れを持って見ずにはいられなかったものです。「他の部分は特に魅力的ではない、しかしそれをおいてでも一度は『して』みたい身体」とは一体どんななのだ、と。
昔を思い出せば、相手と特別な愛情を育んでいないのに「して」しまい、発展しないままに関係が霧散する、といったケースはなきにしもあらず。とはいえそのような時でも、相手からしたら「身体だけが目当て」などでは、決してなかったはずです。「いきがかり上」とか「据え膳感覚」もしくは「珍味感覚」で、何となくそうなったに過ぎなかったのだと思う。
若い頃からそうだったのであるからして、いわんや中年期以降をや。だからこそ、電車内で耳に入ってきた「身体だけが目当て」という言葉に、私は思わず感動してジーンときたのです。
人生における総セックス回数が決まっているとしたら
人生における総セックス回数、というものに私の思いが至ったのは、40歳になった頃だったでしょうか。ごく若い頃、すなわち色々とお盛んだった時代は、人生に終わりが来ることなど考えもしなかったのと同様に、セックスライフにも終わりがあるとは思っていませんでした。
しかし40代、つまりは立派な中年となった時にふと理解したのは、「人間、いつまでもセックスをし続けるわけではない」ということ。そして「人生の総セックス回数があらかじめ決まっているとしたら、すでに自分はその半分以上を確実に済ませている」ということに気づいたのです。
その時点では「人生はまだ折り返しではない、かもしれない」と、私は思っていました。80歳を超えて生きるとしたら、今はまだ人生前半だ、と。
しかし「性人生」はと考えると、折り返し地点は過ぎていることは確実でした。これから性欲に再点火して、若い時以上にせっせとこなす、といったことは考えられまい。性的魅力が、40代にして急に乱れ咲くということも、ありえない。
私は、その「気づき」を、シモとも(=主にシモがかった話をする友達)に、急いで伝えました。若い頃は、年末に「総括」と称してその年にあったシモがかった話を夜通し語り合っていたものだのに、既にそのようなネタも枯渇した、我々。
「性人生の『後半』って、気づかないうちに迎えているものなのね」
「いや後半どころか、もしかすると、我々の性人生は、既に終わっているのかもしれない」
と語り合いつつ、私達は「無常」の意味を知ったのです。
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