平山氏の本の中には、先行研究からの紹介で、高齢の母親を介護する息子が、栄養をつけさせようと肉料理などをせっせと用意するのですが、消化機能が落ちている母親はそれがあまり食べられず、ますます食が細ってしまう……という事例がでてきます。

 
 

私も、たとえば子どもが学校から帰ってきた後に間食として軽く果物を食べた日と割とがっつりパンを食べた日とで、あるいは子どもたちの好みや体調によって、夕飯の時間や量を微妙に調整しています。シンガポールで一時期メイドさんに来てもらっていたのですが、夕飯の準備をざっくりお任せしていると、間食で何を食べていたか、その日の体調はどうかなどと関係なく料理が出てきます。子どもがその時間にほとんど食べず夜になってお腹を空かせて、おやつを欲しがるなどが起こり、結局かなり細かく指示をしないといけないことに疲れてしまいました。これは、料理を外注しているにもかかわらずsentient activityが私に残っているので、負担感があまり減らないというわけです。

平山氏は、作業としての子どもや高齢者の世話に従事する男性(夫など)が増えたとしても、こうしたsentient activityを通じたマネジメントを女性ばかりが担っていること、その状態から夫など誰かに作業を委ねようとするとかえって言語化する手間が生じてしまうこと、マネジメントが目に見えない活動ゆえにその困難を男性に理解させることが難しいことなどを指摘しています。

前回の記事でも書いた「家事4時間、育児8時間」のニュースが出たときに、「自分が家事をかなり担当しているがそんなに時間もかけていないし負担も感じていない」という声がSNSなどででていたのですが、作業としての家事はやっていても、sentient activityや「名もなき家事」は誰かに任せているというケースもあるかもしれません。

ただし、それを指摘することで、時間をかけて高水準を目指すべきだ、とか、効率や時短を追及するのは「愛情」がないとか、やはりケアには「母性」が必要なのだ……という方向に議論が進むのは危険だなとも感じました。手を抜けるところは抜いたらいいと思うのです。でも、sentient activityが必要なところもあり、その負担を理解し、女性だけにそれを任せないことも大事……。矛盾するようですが、どの家事はどの水準でいいのか、ケアとして何に配慮することは削れないのか、それらを誰が担うのか……。そういったことを家庭で一度話し合い共有することが、負担の偏らない家事分担の鍵になるかもしれません。

前回記事「「家事4時間、育児8時間」論争。日本の主婦は無駄な家事をやりすぎているのか」はこちら>>

 
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