幸福でありたい、と願わない人はいないでしょう。ミリオンセラーとなった『嫌われる勇気』の著者であり、アドラー心理学の第一人者である岸見一郎先生は、『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智慧』という著書の中で、人が自らを幸福へ導くための道を探っています。その一部を紹介します。
理不尽に叱る人や攻撃する人を恐れる必要はない
尊敬と愛は強制できない。「私を愛しなさい」「私を尊敬しなさい」と強制したからといって、誰にも尊敬されることはないし、愛されることもない。
尊敬される努力をしないで尊敬されたい、自分の価値を認められたいと思う人は、他者の価値を貶めることでこの欲望を満たそうとする。アドラーはこれを「価値低減傾向」といっている。他者の価値を貶めることで、相対的に自分の価値を高めようとすることである。
部下を理不尽に叱りつける上司はこの例である。仕事では自分が無能であることを知っているので、そのことを部下に見抜かれないように、部下を叱りつけるのである。部下が落ち込めば優越感が持てる。そんなパワハラ以外の何物でもないことをする上司に心と身体をすり減らされることがないようにしなければならない。
理不尽に叱るだけでなく、他者を攻撃する人がいる。その狙いもまた相手の価値を貶め、自分の価値を高めることにある。いじめや差別も価値低減傾向の表れである。自分よりも弱い人をいじめたり、差別することで、優越感を持ちたいのだ。
この時、価値を貶める対象は比較可能な誰でもよい。アノニム(匿名)な人の価値を下げることで、相対的に自分の価値を高めようとしているのである。
いじめや差別は人間として許されない、というようなことをいっているだけでは問題は絶対に解決しない。いじめたり、差別する人がどうすれば自分に価値があると思えるかを考えなければならないのだ。
また、理不尽に𠮟られる対象になる人、いじめや差別の対象になる人についていえば、この理不尽な優越性の追求は特定の個人に向けられたものではないので、自分を責めたり、悲観する必要などまったくないことを知ってほしい。
人からの評価と自分の本質は関係がないと知る
嫌われることも含めて、他者の評価を恐れず、他者の評価から自由にならなければならない。もしまわりに自分を嫌う人がいるとすれば、嫌われることは自分が自由に生きていることの証であり、自由に生きるために支払わなければならない代償であると考えなければならない。
人が自分に対して行う評価と自分の本質にはまったく関係がない。だから「いやな人ね」と言われても落ち込むことはないし、「いい人ね」と言われたからといって舞い上がるのもおかしい。それはある人の評価でしかなく、その評価によって自分の価値が決まるわけではないからだ。
このようにしていれば、誰かに自分の価値を認めてもらわなくても平気でいられ、他者の評価に一喜一憂しないですむ。他者に自分の価値を認めてほしい人、価値を認めてもらえなければ自信を持てない人は自立できていないのである。
特別よくなる必要も、特別悪くなる必要もない
ありのままの自分であるだけでは駄目で、今の自分以外の自分に「なる」ことが求められていると思うようになるのは、教育の影響によるところが大きい。
親が子どもにいい成績を取ることを期待すれば、その期待に応えないといけないと思った子どもは勉強をする。しかしすべての子どもが親の期待を満たせるわけではない。「こんな成績では駄目ではないか」「もっと頑張れ」と言われて頑張る子どももたしかにいることだろう。だが、もう二度といい成績を取ることはできないと思ってしまった子どもは、今度は一転して悪い子どもになろうとする。問題行動をすることで親の注目を自分に向けようとする子どももいるのだ。
しかし、特別よくなろうとする必要も特別に悪くなろうとする必要もない。普通でいていいのである。この「普通である」というのは、「平凡である」という意味ではない。他者と違うことに価値を見なくてもいい。他者と違うことではなく、ありのままの自分でいることに価値があると思いたい。
ありのままの自分ではない誰かに「なる」ことを求める社会だが、といって、どんなふうにでも「なる」ことを許しているわけではないのである。親や大人や社会の期待に応える形でしか変わってはいけないのである。だから自分の価値があると思えず自信のない若い人は、他の誰とも同じである人材としてでなければ人前に出ていけなくなる。
だが、誰の期待にも応えずに、そのまま今の自分を受け入れたい。人は変わろうとする努力をやめた時、初めて変われるのだから。
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