酒井順子さんによる書き下ろし連載。卒業30周年の同窓会に参加して「50代というのは、『reunion』すなわち『再会』のお年頃なのかも」と実感したという酒井さんですが、再会は楽しいし、楽ではあるけれど、それだけに身を浸すのはまだ早い!?とも思い直し……。
昔とった杵柄を再び……再入門の楽しみ
昔の仲間達とのreunionが楽しいだけではありません。50代は自分が若かった時代にしていたことがしたくなる、つまりは「再開」の季節でもあるのではないでしょうか。
たとえば私は趣味で卓球をしていますが、それというのも中学時代に卓球部に所属していたから。「またしてみたい……」と、再びラケットを握ってみたら、これが面白いではありませんか。
きちんと習うと、技量が上達するというのがまた、新鮮です。中年になってからというもの、「退化」「喪失」といった感覚は日々、感じていましたが、何かを頑張って練習してみると、「進歩」とか「向上」といった実感を得ることができるのです。
試合にも出ることがありますが、そちらはそう簡単に勝つことはできません。卓球の上手な中高年は山のようにいるのであり、自分がまだまだ若輩者であると感じるのは、それはそれで新鮮。
昔とった杵柄を再び握り直したくなる、というのは私だけではないようです。同じように、かつて部活でしていたスポーツを再開した人もいれば、とある友人は、子供の頃からずっと習っていたものの、子育てで中断していた茶道を再開したのだそう。
「そうしたらすごく楽しくて。自分はお茶が好きだったんだなぁ、って実感したわ」
とのことで、もう少ししたら茶道を教える側になるようです。
勉強を再開している人も、多いのでした。企業で研究職に就いている知人は、50代となってふと、「自分はこのままでいいのだろうか」と思ったのだそう。会社では責任のある立場にもなり、それなりの実績も残してきた。しかし50代になったある時、「自分はもしや、すごく薄っぺらな人間なのでは?」という気持ちが深まってきたということで、彼はさらなる知識を得るべく、自分の専門とは違う分野での勉強を始めることを決心したのです。
「初対面」や「初体験」は刺激的で楽しいものですが、中高年の繊細な心身にはやや刺激的に過ぎる、ということがあるものです。その点、「再会」や「再開」は、全く初めてのことではないので、ヒリヒリするようなストレスは回避できる。とはいえ、長らくご無沙汰していた人や行為と再び出会うことによって、一定のわくわく感は得ることができる……。
それは、故郷に戻るような行為なのかもしれません。子供から大人へと成長するにつれ、人はどんどん未知なる世界を開拓していくわけですが、ふとその歩みを止めて、自分がスタートした地点を振り返ってみたくなるのが、我々のお年頃。
まだまだ人生は長いので、完全に故郷に戻ってしまうことはできません。しかし懐かしい人や事物に接することによって、人生中盤における息抜き的な感覚を得ることができるのではないか。
親のことを思い出すと、60歳を過ぎた頃から、同窓会の頻度が加速度的に高まっていったように思います。男性達が定年で引退してから、同窓会はどんどん盛んになったようで、ほとんど毎月のように開催されていましたっけ。
次第に、食事をする程度では満足できなくなってきて、定期的に皆で旅行にも出かけていました。リタイア年代となると、故郷回帰の感覚が進行し、「再会」がちょっとした息抜きやレジャーではなく、本職のようになってくるのでしょう。
次に会うときはリタイヤ後なら……
気がついてみたら、60代は自分にとって、そう遠い未来ではありません。大学の卒業30周年の集いがお開きになる時、司会を務めていた元女子アナは、
「次回ここで集まるのは、卒業40周年の機会ですね。その時、我々は、60代になっています。それまでみなさん、どうぞ元気でお過ごしください!」
と、語っていました。それを聞いて、「そうか……」と思った私。今は、会場で「俺、こんなに出世したんだぜ」的に名刺を配っている男子も、次に会う時はリタイアして、頭に手拭いを巻いて、蕎麦打ちをしているのかも。
そう考えると、「今はまだ、郷愁に身を任せてウットリしている場合ではないのではないか」という気がしてきました。再会は楽しいし、かつて慣れ親しんだメンバーと共にいるのは楽でもあるけれど、その安寧に身を浸すのは、もっと年をとったら、いつでもできること。今はまだ、別の世界を拓いていった方がいいのではないか、と。
卒業30周年の集いがお開きになってから、同級生達は三々五々、二次会へと散っていったようです。一方、大学で友達ができなかった私は、一人で駅へ。
昔の仲間と会うのは、楽しい。けれども今は皆、別々の道を歩んでいて、その道が交わるのはもう少し先のこと。……と、そんなことを再確認できた、再会の季節だったのでした。
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