日本人でいわゆる「有事」と言われる状況になると、なぜか起こる「トイレットペーパー買い占め騒動」。その最初の記憶は、年齢バレバレですが、おぼろげに覚えている「石油ショック」。トイレットペーバーを両手に持つ母の洋服の裾をもって一緒に歩いた記憶は、思い出すたびに「アホみたいだったよね~」と笑っちゃうのですが、東日本大震災でも、そして今回も、やっぱり起こったトイレットペーパー買い占め。それも今回は、なくなってないし、なくなる気配もありません。なのに起こるのは、多くの日本人に「トイレの後に拭くものがなかったらどうしよう」という強迫観念がある証拠で、なんだか日本人らしいなとある種のほほえましさを覚えつつも、同時に思うわけですーーそこじゃないってば、と。

 

安部首相の「全国の小中高校への休校要請」でようやく危機感覚え始めた日本ですが、この宣言、個人的には、北海道の鈴木知事(こちらも賛否あるようですが)の方針を試験運用がわりに、様子を見て後追いーーみたいな印象があります。厚生省の主導では、縦割り行政の弊害でもう限界、だから政治が主導して……というのは分かりますが、号令かけたらそれで終わり?どう運用するかはみんなの自主性にまかせるよ!ってことでしょうか。一見「お前の好きにやってこい。責任は俺がとる!」的な素敵上司みたい思えますが、そこでかかる金、税金だからーー。

 

ーーみたいな批判に対して、ものすごーく気になる、いかにも正義っぽい発言が増えてきていることに、私は今、少し慄いています。それは「批判や文句ばかり言ってないで、この有事に一丸となってあたるべきだ」というものです。

こわっ!

有事を新型コロナ禍でなく「戦争」に置き換えれば、この怖さが伝わるでしょうか。こういう風に言っている人が、ネトウヨとかならまだしも、知性も理性も持ち合わせた人だというのが、さらに私を戦慄させます。いやむしろ知性と理性を持ち合わせ、その力を信じているからーーつまりこうした「有事」を利用しようとする下劣な人間なんていない、取り乱す人にも話せばわかるーーそうなるのかなあとも。これもまた「有事」における、知性派、理性派的な過剰反応かもしれません。


批判は悪じゃない。違和感の正体はみんなで考えていけばいい


とはいえ、確かに批判ばっかりじゃ埒が明かない。っていうか、批判すべきポイントはどこかという点を、この際だから少し整理しようかしらと思います。

「批判」についてのここ数年のトレンドは「批判するなら代案を出せ」というもの。誰が言い出したか知りませんが、これさも正しく理屈が通っている気がして、言われた方もなんとなく怯みます。これに対して、私は一言「あほくさ」と言い返したい。

この世の中にすべてに目配せできる神みたいに頭のいい人はいない、意見に対する批判は、その人の持ち得なかった視点を指摘することで、そうした行動なくして議論は始まり得ません。日本人が全然議論をしない、できないのは、批判的精神に乏しいから、そして批判された方が「ディスられた」「否定された」と感情的に反応するから。そう反応されることに臆して、批判はさらに「悪いこと」かのようになされなくなってゆきます。

でも「なんかおかしい」と思ったら言う、こんなのどの世界でも当たり前。その違和感の正体はなんなんだろうと、みんなで考えたらいいじゃないの。なんかヘンだけど明確に言語化することができない、だからってどうしたらいいかは分からない、流れを止めるのも迷惑だろうし、それなら黙っているべきだよね……そういういかにも日本人的な思考回路が、戦争中に軍部の暴走を許したことは想像に固くありません。

そもそもこと政治に関していうならば、国に対して「えええ?!」と思ったら、国民や野党が批判するのは当たり前。だってそのために税金払ってるんだから。(ちなみに「野党は批判だけで何もしていない」という人もいますが、ホントに国会中継見て言ってるんでしょうか?今動き出している新型インフルエンザ等対策特措法の適用は1月末から国民新党が提案してきたことですし、それ以外にも、各自治体が緊急時のために備蓄するマスクの放出など、それなりに建設的な提案もしています。つうか政治の世界一般において、野党は与党が好き放題にならないよう批判するのが仕事。批判しない野党とかそれこそ無意味なんで!)。

「全校休校」といわれ「それは私は困る」「その支援では私がはずされてしまう」と思えば、納税者が声をあげるのは当たり前です。これは女性活躍でも子育て支援でも同性婚でも夫婦別姓でも同じ。「休校」で問題なのは、等分に当事者である全国民の多様性を、国がまったく理解していない、想定が半径3mくらいしかなされていないことです。声をあげなければ、国はその事に気づかないまま、「全校休校を大英断したオレらスゲー」と思いかねません。地域や学校それぞれの事情、皺寄せが来る学童保育の人手不足、給食用食材の納入業者、仕事が休めない共働き家庭、「仕事休むのは当然母親」と思ってる夫と夫婦喧嘩……みたいなことは、夢にも思っていないからです。

もちろん「議論をしているヒマはない」というのももっともな話。政治の世界では、もしかしたら網からこぼれ落ちる人もいることを承知の上で、決断をしなければいけない時もある。でもその場合は、それでもやるべき理由を示し、こぼれ落ちる人たちへの説明と配慮を示すべきです。たとえ全員の納得が得られないとしても、とことん説明する努力を示せば(それによって批判される理由や、行き届いていない部分が明確になる事も含めて)、不満はありながらも「仕方ない」と思ってくれる人は増えるはず。

2月29日になってようやく、新型コロナウイルス感染拡大を受けて初めて国民にむけて開催された安倍首相会見はひどい。いくら「断腸の思い」なんてそれらしく言ってみても、あの態度を見たら(そして自宅に帰るだけなのに「次の用事がある」と会見を打ち切った事実を知れば)それが本心とは到底思えません。今の政権や閣僚たちは、なんの根拠もないまま情緒(ポエムや美しい言葉)に訴えて、騙されてくれると思っているフシがありますが、それは政治ではなく広告の手法です。政治は説明責任。だからあの会見は、質問制限も時間制限もなくやるべきだった。そうしたあり方を許してしまう記者クラブ、台本通りの寸劇を演じながらジャーナリズムの看板掲げる感覚もどうかしています。


有事に露呈した「多様性への感度」の致命的な低さ


多くの国民はそれぞれに、すでに自分の方法でこの状況と戦っています。「一丸となっていない」としたら、それは政治の説明不足のせいです。そりゃあなたは「一丸となろう」っていうんでしょうね。男だから自分が会社休むつもりハナからないんでしょ。仕事休んでも収入は変わらないんでしょ。子供がいないから学校休校でも関係ないんでしょ。お金に困ってないんでしょ。政治が自分を救ってくれないことを肌で感じとり、自分の生活を自分で守ろうと、マスクやティッシュを買いに走ってしまう人を、私は非難できません。

この議論で問われているのは、多様性への感度でもあります。つまり政府は「社会の多様性の実態」を全く理解していない。多くの意見をどうやってしきるのか。ある程度の納得を得るために何が必要なのか。台湾の対応の早さと情報開示を見ていると、なぜこうも違うのかと悲しくなります。批判もせずに「一丸となってくれる」国民のことを、政治は決して考えてくれません。
 

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