日本がこんな状況に陥って、そろそろ2ヵ月くらいになりますか。以前よりニュースや情報番組を見る機会が異常に増えた私ですが、「この人、大丈夫か?」と思うようなことを言う有名人が多いことに驚かされます。度肝抜かれたのは、いわゆるアベノマスクーー4月1日に決定していまだに全員に配布されていない、国民が明日の生活で途方に暮れる中455億円を使い、先の配布分に毛髪や汚染が確認された、その小ささと平面性ゆえに脇が顔から浮いてしまう、議員や専門家が集まる会議の場でも安倍さんしか使っていないあのマスクーーについて、「中高年男性中心の政権が想像力や蟻の視点を持とうとして頑張ってる」なんて弁護する人がいたことです。「中年のおじさんたちって、そういう子供っぽくてバカなところ可愛いのよね~♡」ってことでしょうか。うえええ。そういう想像力に欠ける人たちが政治を担当すること自体が問題なのに、小学生の「頑張ったで賞」的に評価するって、それ一体……。

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そんな状況にイライラしっぱなしな毎日ですが、「禍福はあざなえる縄のごとし」といいますし、まあ「福」とまでは言えなくとも、この状況だからこそのいい面はあるはず。最近の私の楽しみは、みなさんもやっていると思いますが、オンライン飲み会です。その魅力は、何から何まで「自分のペースでやれること」です。

 

これはあくまで私調べによる分析ですが、「飲み会はあんまり好きじゃない」という人の理由の多くは、この「自分のペースでやれないこと」に集約されます。

例えば店選びで。人間が何人か集まれば、必ずそれぞれに「魚が苦手」「肉は食べない」「日本酒が大好き」「ワインがいい」「酒は飲めない」みたいなことがあり、全員の希望を通すには「ファミレス飲み」するり他にありません。でも「子供連れじゃないんだし、もう少しいいもの食べたいんですけど…」なーんて思ったりもしますね。じゃあ「”もう少しいいもの”って?」と聞いてみましょう。「高級ワインとフレンチで一人1万円くらい」という人がいたかと思えば、別の人は「ネタが自慢の気軽な居酒屋で4500円」って言いますよね。「この空気の中で言い出しにくいけど、私はファミレスで一人3000円で十分なんですけど」って人もいるかも知れません。場所はどこにしましょうか。「西東京と私鉄沿線の人が多いから渋谷あたりがいいかな?」って言われたら、たったひとりの千葉県民は「まあ仕方ないか…」と心の中でため息をつくしかありません。

そうやってどうにかたどり着いた店でも、似たようなことは起こります。私が個人的に「あああ…」とブルーになるのは、「まあ食べきれなかったらそれはそれで」と片っ端から注文する人が時にいることです。そもそも食品廃棄がめちゃくちゃ多い日本で、食べ物が残って捨てられることがイヤ、そんな無駄に金を払うのもイヤ、そしてそういう人が「ケチくせえな」という顔をするのが、ものすごくイヤ。お会計で完全割り勘した時に「私、全然お酒飲んでないのに、あの大酒飲みと同額……」と密かに思っている人だって、きっといますよね。

そろそろ帰りたいけど切り出しにくい、トイレの数が少なくて行きたい時に行けない、誰かが吐いたトイレに入りたくない、この人の隣に座りたくなかったのにもはや逃げられない……もうそういうなんやかやは、オンラインであることでほぼすべて解消されます。自宅にいながら、何を食べ何を飲む、もしくは、何を食べず何を飲まないを、種類から金銭面から自分で制御でき、トイレや途中退出も含めた中抜けも気軽。気づいたら路上で寝てた、名前も知らない終着駅についてた……といった、この年齢でしたくない酒の失敗とも無縁です。

私のオンライン飲み仲間で、以前は「対面でないと伝わらないことがある」と言っていた人も、オンラインに慣れてみると「全然伝わるね」と変化しています。私個人としては「対面でないと伝わらないもの」はないことはないと思いますが、すでにある程度の人間関係が成立している相手であれば、それーー相手の感情や反応の機微や、トークのノリのようなものーーは、オンラインでも十分伝わるもの。

相手との人間関係が良くも悪くも成立していない場合は、逆にオンラインという距離感は良い方向に作用する気がします。つまり「無礼な要求」の空気や圧力が弱まること。インタビューなどでもそうですが、人間関係のない相手に踏み込むのは、相手が発する「受け身の空気」をこちらが察知するからです。それは例えば、身体が小さい、声が小さい、遠慮がち、こちらに気に入られたいと思っているなどですが、これはオンラインだと機能しにくい。オンラインであれば、周囲に自分の力や権威を補強してくれる人もいません。さらに言えば、それを踏み込まれた側が、それを自分で排除することも容易です。音声を切り、席を立ち、PCを閉じればいいだけ。

よしんば「俺の酒が飲めないのか!」と言われても、「へえへえ」と言いながらノンアル一気飲みしときゃいい。まあそもそもそういう人の飲み会参加の目的はハラスメントそれ自体なので、それが成立しにくいオンライン飲み会に参加してきません。

こうした感覚は、オンライン化された会社業務にも共通します。オンラインで業務する女性は、自分が望まないスカートからも、ストッキングとヒールからも、化粧からも解放されるし、画面中心のやりとりにおいては、仕事の評価は、個人の属性や行動様式(性別や年齢はもちろん、いつも可愛い笑顔とか、おしゃれな服装とか、お菓子を用意してくれるとか)から、純粋な実力に変わっていくかもしれません。

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コロナウイルスの感染拡大が問うているのは、物理的かつ精神的な「人との距離感」のようにも思えます。物理的な距離を保ちながら、人と人がつながるにはどうすればいいか。物理的精神的な距離が近いことのみが、人間関係ではないのではないか。むしろ組織における人間関係では、ある程度の距離感を保つことで、甘えを排除することができるのではないか。相手を気遣える、歪みのない人間関係を築くことができるのではないか。周囲の同調圧力を気にせずに、それぞれ自由な在り方が尊重しながらつながることも、できるのではないか。もちろん相手に対する自分の在り方にも、同じことが言えるでしょう。

してみると、コロナ禍にいいことはひとつもないけれど、コロナ禍による社会の変化には、悪いことばかりじゃないーーと思いつつ、今を頑張っていきましょうかね。

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