ネット媒体に寄稿しながらも、最近は少しネットに距離をおいています。なんでかというと、目にするとイライラとするニュースが多すぎるから。もちろん社会や政治に目を向けるだけがネットではないのですが、あまりにそういうことが山積みの社会状況で、「そういうことは見ない。自分は楽しいこと見ていたい」というのも、どこか無責任すぎる気も。そういう人、多いんじゃないかなあ。「ないこと」のようにされてきた社会問題が表面化し苛立つことだらけのコロナ禍の日本で、ある程度の心の平穏を守りながら、世の中に関心を持ち続けることは、本当にくたびれます。特に自分の乗っている船を仕切る人たちが、自分のことしか考えないぼんくらだらけだと。

「分かんないけど反対」と声を上げることが、「バカにされない私」を作る_img0
 


ナイナイの岡村さん発言に端を発した議論に思うこと


最近もいろんな事が起こっておりますが、「渥美マター」として興味深く見たのは、やっぱりナイナイ岡村さんの「コロナで困った美人が、一時的に風俗産業で働くようになるのを楽しみに」という、あの発言です。

この発言自体、「そういう下品な話は同じ下品な考えを持つお仲間との、クローズドな飲み会でやって下さい」とは思います。「そんなことくらいで目くじら立てるな」とかいう方々もろとも束にして、少なくとも公の場から消えて欲しいし、個人的にも「女性の貧困問題に対する、金持ってる男の脳天気な上から目線」とか「無意識に“風俗産業に関わる女性=貧乏でブス”と言っているところ」とか、まあいろいろ不快。

でも私がより興味深く観察したのは、そこからはじまったなんやかんや。まず貧困問題に関わる社会福祉士の活動家が「経済的困窮で”イヤイヤやっている”女性たちに対する性的搾取」みたいな観点から猛批判し、これを受けて別のところから「主体的にプライド持って風俗産業で働いている女性への職業差別」みたいな展開になり、実際のセックスワーカーが声を上げ……そのやりとりを見た私は、すごく素朴に「勉強になった」と思ったのでした。いやほんと、怒られるかもしれませんが、これこそ議論の醍醐味だなと。

世界の把握や理解は、その人が置かれる立場や環境により、一面的であったり、細部のぼやけた大掴みなものだったりするものです。それが見えてくるのは、何かに対する意見が出され議論が始まった時。「どの人に何が見えているか」もしくは「どの人に何が見えていないか」が浮き彫りになります。

現代のようなSNS社会が(特にコロナ禍の今のような時期に)いいなと思うのは、相手とある程度の距離感を保てること。いうても議論で熱くなってる人は声もデカいしツバも飛ぶ(そういう人間を生で見るのも、実は別の面白さがありますがw)、それを浴びずに議論に参加できますし、「内容が正しくても、熱苦しすぎて賛成する気になれない」てな具合に、ウザさに本質が歪められることもありません。ある程度の冷静さを保ちつつ、自分の理解や思考のスピードに合わせて時に行きつ戻りつしながら理解できる。(もちろん「こいつといくら話してても埒があかねえ」って時は、一方的に強制終了も可能です)。

そうした大論争が一通り出尽くした後、少なくともそれなりに思考ができる人たちの認識は、確実に底上げされることになります。それ以前は「どこがわからないのかすら、わからない」と思っていた人も、少なくとも「ここがわからない」くらいまではたどり着けるし、「だから説明して欲しい」と言えるようになる。検察官の定年延長問題は、まさに今、そういう段階にあるのではないかと思います。

 


「検察官の任期延長」に「分かってないくせに口出すな」と言う人々


この「検察官の任期延長」の何が問題かは、もっと詳しい報道にお任せするとして。この一連の騒動で私の思うところは2つ。

ひとつは、これを強行採決しようとしている政治家たちが、有権者を「バカにしている」ことです。これまでも国民が望もうと望まざると、「オレらがやりたいことは議論なしに閣議決定して強行採決してきたし、一部の人間が怒ったとしても大部分は“何が採決されたか”も分かってないし、そのうち“決まったことは仕方ない”と諦めてすぐ忘れるし」と思ってるのではないか。

もうひとつは、これに対して声を上げた有名人に「分かってないくせに口出すな」という風潮。アホぬかすなっつうの。最終的にツケを払わされる人間=国民は、分かっていようがいまいが、あーだこーだ言う権利があるの。そもそもそれは「(分かってるオレの意見に反対するヤツは)分かってない」とう意味ですので、ガン無視こそが正しいSNSプロトコルだと私は思います。(ちなみに一人称を「オレ」にしたのは、これが「年配男性→きゃりーぱみゅぱみゅ(もしくは秋元才加)」みたいな構図のセクハラの一種、いうところの「マンスプレイニング(オヤジの説教)」であることが多いからです)。

でもね、考えてもみて下さい。「よく分からないから怖いし、欲しくない。賛成できない」なんて、スーパーで恐ろしい顔の深海魚とか、美肌サロンで激痛ピーリングとか、銀行で年率50%絶対儲かる金融商品とかをすすめられたときと同じことです。こちらの同意がほしいなら、安心できるまで説明するのは売り手のーーここ言えば政治の責任です。「わかんないなら黙ってろ」という恫喝や揶揄、嘲笑をする言動、それを受け入れてしまうことは、私たちの社会への関心や参加を奪い、「分かる人(分かったような顔してる人)」と「分からない人」の分断を生むだけ。

そもそも社会や政治って、大部分の「分からない人」のためのものなんですよ。だからわからないことを恥じる必要なんてない、堂々と「よく分からないけど反対」でいい。政治家は絶対にビビります、どうにか説得しようと頑張り始めるでしょう。たとえ私たちが「分からない」ままであっても、声を上げさえすれば、政治は私たちをバカにはできないんですから。

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