結構昔のことですが、ある仕事で関わった人に、ひどい嫌がらせをされたことがあります。その人は「これから3ヶ月、ある仕事を一緒にすることになった人」として私の前に現れたのですが、私がその仕事を仕切る(というか、そのために呼ばれたので)のが気に入らなかったようで、高校生レベルの面倒くさくて粘着な攻撃が始まりました。
例えば関係者全員の連絡用メーリングリストで、あからさまに難癖つけてきて公開マウンティングしてくる。スタッフに有る事無い事嘘をつく。彼女にはマネージャー(40代男)がいたのですが、そいつがわたしの自宅の電話に11時過ぎに電話してきて恫喝する、なんてこともありました。
終いにはその媒体社(初めての仕事だったので、顔見知りすらほとんどいない)で私に関する怪文書が出回ったらしく--まあこれに関して犯人特定はできなかったものの、「この近辺一帯には関わらんほうがいい!」と私のアトピー性皮膚炎が強く強く主張するので、早々に「やめます」と宣言、どうにかこうにか縁を切ることができました。
私は比較的こういう理不尽な状況に強いほうーーつまり気持ち的に「落ちる」のではなく「ふっざけんなよ」と怒りみなぎるタイプですが、とはいえ、その時の精神の疲弊たるや。当時アラフォーだった私でそんなですから、22歳という年齢で、それも全世界から飛んでくる「誹謗中傷」が、どんなに辛かったか。木村花さん。本当に。
「批判」と「非難」「罵詈雑言」はまったく別モノ
彼女への「誹謗中傷」を「批判」かのように言う人、逆に正当な「批判」を「誹謗中傷」とすり替えようとしている人、両方が入り乱れている現状を見るにつけ、「このふたつを混同するとか、日本人の日本語能力はほんとに大丈夫か」と思うのですが、まあさすがに「誹謗中傷=悪口」が分からない人はいないはず。つまり誤っているのは「批判」に対する認識です。
原因はおそらく、日本人にありがちな「人を批判するものじゃない」という価値観の刷り込みで、これが脳内で反転し「批判→すべきでない悪いこと」という絶対的回路になっており、「誹謗中傷」と同じジャンルに入れられてしまうんじゃないかと思います(ちなみにここでの「批判」の意味も「非難(相手の過失をあげつらい責めること)」と、ごっちゃになってるきらいアリ)。
じゃあ「批判」はどういう意味かといえば、読んで字の如しーー物事を比較・分析し、判断すること。その結果として「怒り」「笑い」などの感情に至ることはあるでしょうが、基本的には別視点からの理論構築、平たく言えば「自分の見方や意見を持つこと」「自分の頭で考えること」です。必ずしも否定的なものではなく、特定の事象や意見に対し別の側面や疑問を提し、その先へと発展させること。これを各々が発し、積み重ねることで「議論」が生まれます。日本で議論が起こりにくい理由は、その第一歩である「批判」が悪いことかのように思われているからです。
では木村さんに投げつけられたコメントはといえば、「気に入らないからぺしゃんこにしてやる」という感じの罵詈雑言--つまり「誹謗中傷」以外のなにものでもありません。
例えばこの対象が友人だったら。仲間との飲み会のみで許される罵詈雑言を、本人に直接ぶつけることは、おそらく誹謗中傷コメントした人でもしないでしょう。理由は相手を傷つけること、そして傷つけた自分も責められるかもしれないことが、想像できるからです。SNSの匿名性で、2つ目のハードルが消えるのは理解できますよね。でもなぜ「傷つけること」は平気なんでしょう。なぜ「どうせへとも思ってない」「傷つけていい」と思うんでしょうか。
過剰な「職業」「役割」意識
これは木村さんの死の少し前、きゃりーぱみゅぱみゅさんが検察庁法改正案を「批判」し炎上したことと同根であるように、私には思えます。つまり誹謗中傷した相手は、彼女たちを「自分と同じ人間」ではなく、自分たちを楽しませるだけの、大衆の意に沿わないことをするのは許されない「アイドル」「芸能人」だと思っているから。
私は、コロナウィルスが蔓延する中、それでも「仕事だから」と会社に通っていた多くの人たちのことを思い出しますーーつまり日本人一般の中に広くある「仕事」や「役割」についての忠誠心の強さを。それはそれで素晴らしい。でもそういう人は立場が変われば、自分以外の人にもそれを当たり前のように要求するものです。
仕事で「お客様は神様」と尽くす店員は、自分がお客様であれば「神様」として扱わなければ腹を立てる。「良い母」であろうとする人ほど、自分なりのあり方で子育てする母親に対し「子供が可哀想」と言ったりする。組織を守るために不正行為に手を染める人がいるのも、それが組織人としての役割だからです。そこに思考はなく、世の中のプロトコルに従っているだけ。木村さんを攻撃した人にも、おそらく特別な悪意はない、たんなるストレス発散。そのことに、私は戦慄します。
ならば、自分が「役割」以前に「一個の人間」であると認めさせるには、どうしたらいいのか。それには「役割」を越えて、「私個人」が考え、感じていることを、恐れず発していくことしかありません。自分が発することは、慣れるまではきゃりーさんのように苦労するかもしれません。でも、少なくとも恐れず発している人を「支持」することはできるはず。前回の「バカにされない私」と、要は同じことです。コロナ禍によって集団や組織のあり方が激変する今、誰もが「役割」よりも「個人」として存在できることと、それが当たり前の社会に、変わっていくといいなと思います。
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