コロナ禍を「戦争」に置き換えることの危険さ


コロナウィルスへの対処で迷走した/している多くの国々に、共通することがもうひとつあります。それは時に政治家や著名な言論人が、コロナ禍を「戦争」「戦時下」と形容すること。パオロさんは「まったく新しい事態を、馴染みのある言葉に置き換えること」ーー特に「戦争」に置き換えることは、事態を見誤ることにつながると指摘します。

パオロ その理由はいくつかありますが、もっとも大きな問題だと思うのは、「戦争」に例えることで、人々が「ウィルス=敵、得体のしれないエイリアン」のように思ってしまうこと。ウィルスはそうした存在ではなく、僕らが生きている生態系の中の「1要素」です。確かに問題ではあるけれど、生態系の中で解決していくことが大事なんです。「戦争」という言葉で簡略化することにより、そうした観点が一切無視されてしまう。ウィルスの問題は、環境問題や世界的な人口増加などにも関係した、もっと複雑なものです。

 

例えば、人間が獲得した技術によって自然の奥深くまで足を踏み入れること。それによって行き場を失った動物との接触機会が増えること。地球温暖化による植物の豊作で、特定の生物が激増すること。これまでとは異なる食物連鎖によって、ウィルスとの人間の距離が近づいてゆくこと。世界的な人口爆発による食料需要の増加で、これまで食用にはされてこなかったその野生動物(時に未知のウィルスの貯蔵タンクたりえる動物)を食べるようになること。

 

「わかりやすさ」ばかりを求め、世界の複雑さから目を背け続ければ、「買い物に行くためだけに警察に外出理由証明書をプリントアウトする羽目に」なる世界が続くと、パオロさんは言います。

パオロ 今回の事態における地理的な距離と状況のギャップにみたいなものも、興味深く見ています。日本は、ウィルスが最初に発生したと言われる中国に距離的には近いけれど、状況はイタリアのほうがずっと悪いですよね。


これもまた、世界の複雑さの証左と言えるかもしれません。


観光客が誰もいないローマを楽しむ贅沢な時間


この取材の2日前、イタリアではロックダウンが解除に。でも町は、必ずしも「かつての日常」を取り戻してはいなかったようです、

パオロ 普通ならこの季節のローマは観光客でいっぱいなんですが、今はまったくいないんです。だから歴史上において最初で最後になるかもしれない、観光客のいないローマを楽しむ贅沢を味わっていますね。ちょっとエゴイストに聴こえるかもしれませんが、人生に一度くらいは楽しませてもらおうかなと。


今、この緊急事態宣言下で私たちが問われているのは、これから先の「日常」の定義かもしれません。つまり「かつての日常」と同じ日常を、今後も続けていくのか。続けていきたいのか。

 

パオロ ここ12年くらい、僕は飛行機や電車に乗って、移動を繰り返してきました。環境的に見ても負荷の高い、サスティナブルでない生活だったんです。今回ものすごく久しぶりに家にじっとしている生活をしてみて、「できるもんだな」とも思いましたね。新しい時間の過ごし方、異なる次元みたいなものを体験できたことは、大きな体験だったと思います。ただ今後も環境にいいサスティナブルな生活をし続けていけるかとどうか、まだそれほど自信があるわけではありません。
残念ながら私たち知性の働きはすごく限定的で、目の前に迫る危機しか意識できません。私が最初に書いた記事も、1週間早いタイミングであれば、おそらくここまでの反響は得られなかったでしょうし、ひょっとしたらこのまま2ヶ月もすれば、人々はこの危機すら忘れてしまうかもしれません。だから今、危機の中にあるうちに、今後のことをきっちりと考え始めるべきです。これだけの人の死を経験しながら、それを忘れてしまうなんて許されてはいけない。作家や芸術家の役割は、そうならないために繰り返し振り返り、問いかけ続けることだと思います。
 

 

<書籍紹介>
『コロナの時代の僕ら』

パオロ・ジョルダーノ(Paolo Giordano (著), 飯田亮介 (翻訳) ¥1300(税別) 早川書房

感染症とは僕らのさまざまな関係を侵す病だ。この災いに立ち向かうために、僕らは何をするべきだったのだろう。何をしてはいけなかったのだろう。そしてこれから、何をしたらよいのだろう。コロナの時代を生きる人々へイタリアを代表する小説家が贈る、痛切で、誠実なエッセイ集。


取材・文/渥美志保
構成/川端里恵(編集部)
 
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