「まあ! 先生、今日はいつもより特別に綺麗!」
 開院以来、通ってくださっている箕浦さんという女性が診察室に入ってくるなり声をあげた。
「そのルージュ、すごい似合ってらっしゃる。それくらい派手な色のほうが先生のお顔にはいいわよ」
 そう言いながら、デスク横の丸椅子に座る。
 箕浦さんは七十代の女性だった。皺は自然現象だから皺取りには興味はないが、シミだけは汚らしく見えるので、綺麗にしたい、といらしたのが最初だった。それ以来、継続的にこうして通ってくださっている。彼女もまた、七十代には見えない、五十代後半と言ってもいいのではないか。一人暮らしで不動産業をしているということは彼女の話を聞いて知っていたが、他の患者さん同様、私のほうからそれ以上のことは立ち入って聞いたことはなかった。
「今日もいつものレーザーフェイシャルでよろしいですか?」
「ええ、それと、今日はね、それにくわえて、ほら、この手の……」
 そう言って箕浦さんが両手の甲をこちらに差し出した。ネイルも定期的に通われているのだろう。柘榴色のネイルにワンポイントのスワロフスキーがよく似合っている。
「血管が目立っていかにもおばあさんの手じゃない。これをなんとかしたくて。目立つシミはいくつか先生にレーザーでとっていただいたでしょう。……いつか、先生がブログで書いていたじゃない。手にヒアルロン酸打つのがいいって」
 HPを見てやってくる患者さんの多くは、私やスタッフが書くブログの文章を本当によく読んでいる。箕浦さんは私の母より年下ではあるが、七十代の女性がパソコンに慣れ親しみ、HPやブログをチェックしている、という事実には毎度のこと驚かされる。私の母はパソコンにすら触れたことがないだろう。
「ああ、あの写真、私の手なんですよ。ほら」
 そう言いながら、私は手の甲を箕浦さんに差し出した。
「あら、そうだったの」
 箕浦さんが私の手をまじまじと見つめる。
「麻酔クリームも必要ないですし痛みもありません。手の甲の凹みの深さや形状に合わせて、ヒアルロン酸を注入していきます。片手で十分くらいでしょうか。直後から効果はわかりますが、時間とともに自然に馴染んでいきます。内出血が出ることもありますが、一週間もすれば目立たなくなります。まれに痛みや赤み、これはほんとにレアケースですが血管閉塞による組織壊死というものも報告されています」
 医師として副作用について説明する義務はあるが、箕浦さんは私の話の後半はもう耳に入っていないようだった。
「あと、費用なのですが、両手でヒアルロン酸を二本ほど使いますので、施術料と併せて二十五万円になりますね」
「いいのよ、値段なんて。このしわくちゃな手が綺麗になるのなら」
 箕浦さんは私がすすめた施術はほとんど断ったことがない。自宅がこの近所にある、というだけで、かなりの資産家であるということは想像できるが、手の甲の血管を目立たなくするためだけにぽんと二十五万円を払える彼女の生活、というものがふと頭をよぎる。私はその想像を自動的にシャットダウンさせる。
「それでは同意書をお読みになって、わからないことがあったらお聞きになってください」そう言って差し出した書類をよく読みもせずに箕浦さんはサインをする。副作用も説明したし、これでいいのだ、と自分を納得させて、
「じゃあ、さっそく始めましょうか」と箕浦さんに笑顔を返した。施術は三十分もかからず終わった。
「これで、孫にしわくちゃな手! なんて言われずにすむわ」
 箕浦さんは上機嫌だった。
「先生は魔法使いね」
 そう言ってスタッフに黒いカードを差し出す。
「一回払いで」
 その声も心なしか弾んでいるように聞こえる。
 女の、若返りたいという欲望には底がない。年齢不詳の女を自分の手が作り出しているという自覚はある。箕浦さんが言うように魔法使い、とまでは思わないが、女たちの欲望に自分の技術を使って応えているというプライドと自負はある。加齢による見た目の劣化、という呪いから女たちを解き放つことができているとするなら、美容皮膚科医になってよかったと、心からそう思う。
 そもそも、このクリニックで美容皮膚科医をしていなかったら、私はあの人と出会うこともなかったのだから。

 


次回更新は、8月5日(水)予定です。
 

ミモレインタビュー
「【小説家・窪美澄さん】40代の先に、ご褒美のような50代が待っている」>>

『私は女になりたい』(1)_img0
 

『私は女になりたい』
窪美澄 予価 本体1600円(税別)(2020年9月14日刊行予定)

主人公の赤澤奈美は、アラフィフの美容整形外科医。カメラマンの元夫とは離婚し、シングルマザーとして息子を育てながら仕事一筋で生きてきた奈美だが、14歳年下の男性患者・公平と恋に落ちて……。


カバー画像/
O'Keeffe, Georgia (1887-1986): Abstraction Blue, 1927. New York, Museum of Modern Art (MoMA). Oil on canvas, 40 Œ x 30' (102,1 x 76 cm). Acquired through the Helen Acheson Bequest. Acc. n.: 71.1979.© 2020. Digital image, The Museum of Modern Art, New York/Scala, Florence